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好きな人とは、ただ一緒に歩くだけで幸せ

最近、下の息子がバドミントンにはまっている。

どれくらいはまっているかというと、7畳の部屋の中で毎晩バドミントンに興じるくらいはまっている。

21時半くらいに私は息子と寝室にいき、寝る体勢に入ろうとするのだけど、その前に、「ママ、バドミントンやろー」と言われる。

圧がすごい。
やらなければ、あからさまに不機嫌になるので、疲れた体をおしてやることになる。
7畳の部屋で、バドミントン。
ラケットが壁に当たって部屋に穴が開くのは、時間の問題だろう。

できれば、外でやってあげたいな……と思っていた矢先、我々についにチャンスが訪れた。

先日の良く晴れた週末。
4月だというのに、半袖で大丈夫な暖かい日。そこまで風も強くなさそうだ。
めずらしくぽっかりと空いた時間ができて、息子に「外の駐車場横の空きスペースでバドミントンやろうよ」と声をかけた。

久しぶりに、外で一緒にバドミントン。
息子は本当にうれしそうに、にこにこしながら羽根を追いかけている。
部屋の中と違って、思いっきりラケットを振れるのも気持ちがいいのか、かなり本気で打ってきた。

私は「あぁ、ようやく、本当のバドミントンをやってあげられた」という満足感を感じた。

羽根が、マンションの敷地を囲う網を超えて外へ出てしまう。バドミントンをやれることが嬉しくて、全くめんどくさがらずに羽根を取りに走る息子。その背中がとても可愛らしくて、また心が満たされる。

そんな息子との時間がとても幸せで、「もしかしたら、私は息子とバドミントンをやるために私は生まれてきたんかいな」と本気で思ったりする。

・・・

今から1年ぐらい前に遡る。

私は息子達と3人で近所の道を散歩していた。

その日は5月なのにすでに蒸し暑くて、なんとなく、子どもの頃に行ったお祭りの夜を思わせた。

西日に照らされた息子たちの柔らかい髪が黄金色に輝いて、美しい。
まだ、容赦なく照り付ける日差しでもなく、じっとりと汗がはりつくほどの蒸し暑さもない。

2人は、ただ歩くだけだというのに、いつものようにふざけ合って全く落ち着きがない。
そして心底、楽しそうだ。
お行儀よく道の端を歩くということは決してなく、追いかけっこして走ってみたり、ちょっかいをかけあっては、ケタケタと笑う。
私はそれを見ながら、時々、危ないよと声をかける。

その、危ないよの言葉は、子ども達がもっと小さかった頃の、凄みのある真剣な危ないよ!とは違って、随分と穏やかな気持ちで2人を眺められるようになったなぁと思う。

歩きながら学校であったことを、それとなく聞き出す。

2人がこんなにも楽しそうで溌溂としていて、私はそれだけで充分に満足な気持ちになる。

うどん屋さんに入店。
メニューにある牛すじカレーうどん、920円を頼むという二人。

うどんがテーブルに届くと、「うひゃー、うまそう」と盛り上がる。こんなに騒々しいのは、うちのテーブルだけのようだ。「もう静かにしー」と言いながら、私も子ども達と冗談を言いながら盛り上がる。

ただ、それだけの時間が愛おしく満たされる気持ちがした。何でもない1日の何でもない瞬間が至福だなと思う。

そして、なんとなくだけど、「私は、この2人と、こうやって笑い合って楽しく過ごすために生まれてきたのかな?」なんて、やっぱり本気で思ったりするのだ。

そういう幸せな瞬間が、たまに、なんの予告もなく私の毎日に、ふんわりと訪れることがある。

息子を後ろの座席にのせて、ゆっくりと、でも力強く自転車を漕いだ夕暮れに。

ただ家族で近所の馴染みの道を肩を並べて歩いている、その瞬間に。

子どもたちと過ごす日々に、葛藤がないわけではないし、悩んだり反省したり忙しい。

でも、こんな幸せな瞬間があるから、生きていける。


人生で何か成し遂げたり、誰かの役に立たなきゃなんて、本当はあまり必要ないんだろうな、と思う。

ただ好きな人と、こういう時間を積み重ねるために生きているんじゃないのかな。

そんなふうに私は、度々思うことがある。






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