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何故かくも自分の命にしがみつくのか

聖書では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書第15章)と、自己犠牲の大切さを唱えている。

そもそも古代ギリシア以来、西洋では、自分が所属するポリスのために自分の命を犠牲にすることは、民主政の観点からも重視されてきた。

また昭和の日本では、『ジャングル大帝』、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、『風の谷のナウシカ』などが、自己犠牲でフィナーレを飾った。


自己犠牲の理念を否定した現代日本

しかし21世紀の日本社会は自己犠牲の理念をはっきりと否定した。
例えばGoogleで「自己犠牲」と検索すると、ウイキペディアの次に出てくるのは、サイト「マイナビウーマン」である。
同サイトの記事で、心理カウンセラー荻原かおり氏は「自己犠牲の行動をとる人は知らず知らずのうちに相手を優先した結果、自分が損をしがちです。時には幸せのチャンスを逃してしまうことすらあり、できればやめたほうがいいでしょう」と述べている。
 
このような自己犠牲否定論の背景として、次の3点が挙げられよう。
 

心理カウンセラーは社会に無関心

第1に、心理カウンセラーは患者個人の治癒にしか関心がない。カウンセラーは患者の背景にある社会を見ようとしない。患者の周囲にどれだけ沢山の不幸な人々がいたとしても、患者個人は幸福になれると、カウンセラーは信じている。
 
しばしば学校カウンセラーは、いじめられっ子といじめっ子を分断して隔離することで、「平和な学校」を構築できると信じているが、それと同じである。
カウンセラーの限界は、社会的なるものを考慮に入れることができない点にある。

社長さんは社員のエゴイズムから利益を得ようとする

第2に、「マイナビウーマン」が「働く女性」のためのサイトであることを忘れてはいけない。
 
〈いまどきの社長さん〉は、労働者が会社のために自己犠牲をすることを望まない。
熱心で真面目な労働者は、会社のために何が重要なのかを考えるわけだが、
〈いまどきの社長さん〉にしてみれば、そんな労働者は厄介者なのだ。
「会社のために何が重要なのかは、社長である自分自身がいちばんよくわかっている。
だから労働者はただただ自分のキャリアのことだけ考えていればよい。
労働者はエゴイストであってかまわない。自分が好きなときに転職すればよい。
そうであればこそ、社長もエゴイストとして振る舞える。自分が好きなときに労働者を解雇できる」-、
これが〈いまどきの社長さん〉の思考様式だ。
 
それゆえ自ずと、「働く女性のための」サイトはそんな〈いまどきの社長さん〉の論理にすり寄って、社員のエゴイズム、すなわち視野狭窄的で独善的な思考を助長し、礼賛するようになる。
そのようなサイトにとって、自己犠牲はナンセンスなのだ。

誰のため、何のための自己犠牲なのか

第3に、現代社会においては、そもそも誰も、誰かから、犠牲になってもらった経験がない。だから誰も、誰かのために、犠牲になろうとは思わない。
 
キリスト者ならば、自分が現在あるのは、イエス・キリストの自己犠牲のおかげであると信じるので、自分もまたイエス・キリストをみならって自分を犠牲にしようと思う。
 
しかし〈ふつうの日本人〉にそれを望むのは難しい。
右翼は「滅私奉公」を唱導するが、〈ふつうの日本人〉は、そもそもお国がアタシのために何をしてくれたのさ、と思っている。
アタシが苦しかったとき、みんな、冷たかった。じゃあ何故、みんなのために、アタシが犠牲にならなければならないのさ、と、おそらく〈ふつうの日本人〉は思っている。
たしかに、自己犠牲は自発的に行なうもので、強制されるものではない。
 
かくして現代の日本から自己犠牲は消失したのではなかろうか。

自分のための自己犠牲

それでも、高潔であることを望む僕は、自己犠牲を大事にしたい。
みんなのために、自分自身ために。
自分が誇りを持って生きられるように。
自分の時間を誰かのために犠牲にしてやったって、いいだろうさと思う。

他人の頼みを「忙しい」とか「自分の生活がある」とか言って拒絶するひとたちを見るたびに、僕は彼らと同じ空気を吸っていることを不快に思う。


「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という理想を大事にしたいのだ。

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