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大誤解 ―逃げる男たち


「逃げろ!」

アメリカ南北戦争の映画だったかな。
敵が少年兵らを前面に出してきたとき、ジョン・ウエインは「逃げろ!」と叫んだ。
あの男のなかの男、ジョン・ウエインが、子どもをまえにして「逃げろ!」と叫び、そして実際に逃げだしたのであった。
面白かったし、考えさせられた。

男が逃げるときは3つ。
①臆病風に吹かれたとき。
②体勢を立て直してから復讐戦をいどむとき。
③敵と戦うことが名誉にならないとき。

今日のおはなしはこの③だ。
子ども相手に戦っても、名誉にはならない。
勝っても負けても不名誉なだけだ。
むしろ戦えば、味方の士気に悪影響を及ぼす。
だからまさに明朗快活なジョン・ウエインは「三十六計、逃げるにしかず」で逃げたのだ。
(これがマカロニウエスタンのクリント・イーストウッドになると話は違う。映画『許されざる者』は女も子どもも情け容赦なく殺した、アル中ガンマンが主人公である。)

誇りある男たちはどこへ

子ども相手に逃げるのは、子どもを保護するためだけではなかった。自分の名誉のためであった。別言すれば、子供と戦うということは、軽蔑すべきことであった。

しかし歪んだ民主化の波が押し寄せた。

その結果、どういう状況になったか。
自分で自分を「弱者」だと規定する子どもぽいひと(自分の私的利益の拡大をはかるひと)が、
自分で自分を「強者」だと規定する男らしいひと(普遍的原理を守ってスジを通してケジメをつけるひと)を攻撃する。
強者は、弱者から「弱い者いじめをしている」と攻撃される。
強者は、弱者と戦うのは自分の名誉にならないと判断して、逃げる。
(人生という戦場から逃げて自殺をしたり、社会という戦場から逃げて趣味の世界に隠遁したりする。)
実を言えば、この逃げた段階で、強者は、弱者をまともに戦うに値しない者とみなして、最大級の侮辱を加えているのである。
ところが弱者はそのことを理解せず、自分たちに恐怖して強者は逃げたのだと誤解して、「正義が勝った、ばんざーい」と歓喜する。

いやあ、シニカルな状況だなあ。
逃げる強者も無責任だし、歓喜する弱者も愚劣だ。

このまま行くと、社会は女性専用車両のようになるだろう。列車が曲がっても、踏ん張る男がいないから、乗客はあっちに揺られこっちに揺られ右往左往する。列車が急ブレーキをかけたら、転倒する客も続出する。

誤解を解かないと。。。

各人の責任

日本には漢字文化(公の文化)と、ひらがな文化(私の文化)がある。
前者は原理原則を説く重く硬い文化であり、後者は融通無碍で優しく柔らかい文化である。
前者は何のために生きるのかを重視し、後者はみんなで仲良く生きることを重視する。
縦糸と横糸、両方ともひとしく大事である。
ただそれぞれ役割は別のはず。

みんな、各々の役割(義務)を認識すべきではないのか。

例えば、本来、エリート階級は庶民階級を公共善のために指導する義務があり、庶民階級はエリート階級に服従する義務がある(もちろん相互の対話と理解が根底にあるべきだ)。しかし現在、エリートは庶民におもねりへつらうことで自分の権益を保持し、庶民はエリートの揚げ足をとってよろこんでいる。

例えば、子どもは社会の一員として「よく学び、よく遊び、おうちのお手伝いをする」責任がある。その責任を果たさない子ども、例えば授業中におしゃべりをして勉強をしない子どもに、完全な人権があると、どうして言えようか。

あるいは、男と女は愛しあう責任がある。愛しあう責任を放棄して、争いあう男と女に、人権は認められるべきなのか。

え?同性愛者?
まさに彼らこそが、ばらばらに分断された社会の接着剤になるべく、積極的に愛を普及すべきだろう。社会の一員なのだから、被害者を気取っている暇はない。

らぶ・あんど・ぴーす!

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