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❖読書:地下室の手記(ドストエフスキー_江川卓訳)

初めてドストエフスキーを読んだのは高校生の時だったと記憶している。
それは「カラマーゾフの兄弟」だった。
感想は・・・さっぱりわからなかった。
ただ単に目に文字が映っているだけだった。
そもそも、登場人物の名前がややこしく、途中で愛称で呼ばれるようになり、「この人誰だっけ???」の連続だった。
その後、大学生の時に再度チャレンジしただろうか?
その時も同じ症状だった。

社会人になり、カラマーゾフを持っていることも忘れている時に出会ったのがこの本だった。
それは本屋での立ち読みから始まった。
「ぼくは病んだ人間だ・・・ぼくは意地の悪い人間だ。」から始まる。
主人公の名前は、ネクラーソフ・・・根暗な人?
カラマーゾフより頁数は少ないし、何とかなるだろうという軽い気持ちで購入してしまった。

この本、読みだしたら止まらない。
一度目は二部構成に気付くのに時間を要したが、もう一度注意深く読み込むと非常に面白い構成になっていることに気が付いた。

ネクラーソフ、あなたは病んでるし意地悪い人間だよ。
でもこの感情、何となく理解できるな。
そうそう、同じことを考えたことがある。
そんな感じで吸い込まれていく。

五度目だっただろうか、あることに気が付いた。
ネクラーソフ、実は自分自身だったのだ。
上手く表現できないが、太宰治の人間失格を読んだ時の感覚に似ていた。

この本のおかげでドストエフスキーにどっぷりハマることになった。
カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴、悪霊、死の家の記録を読み込むことになった。
カラマーゾフはもう何度読んだかわからない。
読み返すごとに新しい発見があり、本当に面白い。
唯一、宗教的な部分が日本人の感覚ではわかりずらいところがあり、本当に理解できているか定かではないが、まあいいだろう。

カラマーゾフに出会って約四十年、やっとドストエフスキーの読み方がわかった。
時間は掛かるが、登場人物の相関図を作りながら読めばよかったのだ。
ネットで調べると既に同じことをやっている人がいた。
もっと早く参考にしておけばよかったと反省している。

ドストエフスキーは登場人物に自分自身を投影し、読者は登場人物に自分自身を投影するようになる。
ドストエフスキーが仕組んだ罠にまんまとハメられているのだろうか。
彼は天国で含み笑いしているのかもしれない。

何か自分自身と向き合いたいとき、私は「地下室の手記」を手にする。
そして、今日も読んでいる。

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