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Butterfly Kiss

恋人の頬にまつげを軽く当ててぱちぱちとまばたきをすると、
「もう〜何してるの〜?何なのそれ?」と彼が笑うのがうれしくて、くっついていられるときにはしょっちゅうそれをしてしまう。

私は彼に対するとびきりの愛情表現のつもりでそれをしているけど、彼にとってはただ単にくすぐったいだけなのが、なんだかおっとりした感じで好ましい。

今年の夏やすみ、夜にお酒を飲んだあと、お布団のうえでじゃれ合いながらまばたきで恋人の頬をなでると、くすぐったがりの彼が身をよじって大笑いしていた。

「それ本当になんなの〜?くすぐったいよ、変だよ~」と言いながら私から逃げようとするので、「なんで逃げるの、逃げたらだめ!」と、彼を逃がさないように腕と足を彼の細身の身体に巻き付けて、何度もまばたきをして、まつげで彼の頬や首筋にちょっかいをかけ続けた。

彼はくすぐったいとじたばた暴れ、私はその様子を見てげらげら笑い、ふたりで大騒ぎして、すごく満ち足りた時間だった。

「ねえだって聞いて?」と私は一旦彼を愛でるのを中断して言った。

「もし私が死んだりしてさ、あなたがそのあとすごく素敵な誰かと巡り会えて付き合ったり結婚したりしても、多分この愛情表現はやってもらえないと思うよ?だから、私が今いっぱいやってあげるね。私が死んだらこのまつげぱちぱちを思い出してねえ〜」と言ってから再びぱちぱちをすると、
「わかった、わかった、思い出す、ねえくすぐったいの、やめて」と彼はとろんとした眠そうな目でまた笑い始めた。

私は今日、そのまつげぱちぱちには「バタフライキス」という名前がついていることを知った。蝶々が羽ばたくような、やさしくて穏やかなキス。

やっぱり名前がついていたんだ、ちっとも変じゃないじゃない、と最初に思い、唇を押し当てるのでなくともキスなんだなあ、なんてかわいい名前なんだろうと次に思った。

頬に口づけをするのとは違う、もっと静かで繊細な、やわらかなかんじ。

私はその名称をすごく気に入った。
そして何より、自分ではそのキスの存在を知らず、ただ本能的にまつげで彼に触れていたということに満足した。バタフライキスという名とその方法を知っていたからしているのではなくて、私の彼に対するいとおしさがあふれだして、その結果まつげで彼の滑らかな肌に触れることによってその愛情を表現していた、ということが何よりうれしかった。

あのまつげをぱちぱちするやつね、名前がついてたんだよ、バタフライキスって言うんだって、かわいい名前だよねと、恋人に話そうと思ったけど、そのキスに名前がついているくらいなら、もし私が死んで、その後で彼の恋人になる女のひとも、彼に同じようなことをするかもしれないと思った。

だからそのキスの名を明かさず、秘密にしていることにした。

私はできるかぎり死なずに生きて彼と日々を歩いて行くつもりだけど、もし万が一、私の方が先にこの世を去ることがあるならば、あのまつ毛ぱちぱちは彼にとって、私とのありふれていて特別な、くすぐったい愛の記憶として残っていてくれたらいいな、と思ったからだ。

そしてたとえば彼が私の不在を乗り越え、素晴らしい女性と一緒になって、そのひとが彼にバタフライキスをしたとき、初めて、その行為が決して特別なものではないのだということに気づいてほしいと、そう願ってしまったのだ。

けれど、ばれてもかまわないよ。
たとえば彼がこの文章をたまたま読んだりして、「もう、名前がついてたならなんで教えてくれないの!」と私に言ったとしても、別にかまわない。

でもそれまでは、彼にとっていま最も特別な女の子の、ちょっと変わった愛情表現のひとつとして、名もなく他愛のない、ただくすぐったいだけのものとして、あの蝶の羽ばたきのようなキスを憶えておいてほしいのだ。


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