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ワニの筆箱の彼

大学にワニの筆箱を持っている男の子がいる。

こういう一文を、一体私は何度noteで書いたことだろう。

もうそろそろ「ワニの筆箱の彼が…」という普通の書き出しで文章を始めても問題ないような気はする。でもこの「大学に〇〇な××がいる」という書き出し、結構気に入っているのでつい使いたくなっちゃうんだな。

(彼のことが書いてある記事はこちら↑)

このたび、今までは断片的に書くだけにおさまっていた彼のことを、わざわざ「ワニの筆箱の彼」という題をつけてまでnoteに残しておこうと思ったのは、私と彼の友人としての関係がある程度の段階まで進んできて、それは私にとって非常にうれしいことだからである。

うーん。

とは言いつつ、何から書けばいいのか分からないな。とりあえずいくつかの出来事を書いて整理してみるつもりだ。

***

そもそもなぜ彼と仲よくなれたのかというと、それは物語によくあるドラマチックな出来事とか、彼の意図とかではなく、他の誰でもない私の意志なのだ。単に私が彼と仲よくなりたかったので、会うたび彼に話しかけ続け、その結果として仲よくなるに至ったというかんじ。

彼がキュートなワニの筆箱を持っていることを利用して、私は去年の秋ごろ初めて彼に話しかけた。

彼は見る限りいつもひとりで行動していたし、こんなことを言うのはどうかと思うけれど友達が多そうな感じはしなかったので(失礼でごめんね)、おとなしくて静かなひとなのかな、と思っていたけど全然そんなことはなかった。

話してみたら気さくだし案外ノリもいいのだ。

例えば急にカメラを向けてもこっちを向いてピースしてくれるような無邪気なところがある。第一印象だけでは決してそういうふうには見えないひとだから、余計に際立ったのかもしれないけど。

私は彼と仲よくなりたいがために、そして彼の足を研究室へと向けさせるために、春から不定期にチュッパチャップスをプレゼントしている。

そうして彼が研究室にのそのそやってくると、「ここ座りなよ」と私は自分の隣あたりの席を指す。彼は文句も言わずに指定された椅子に座って作業を始める。ごくごく稀に彼が私より先に研究室に来ていた場合は、私が彼の近くの席に座ることもあるけれど、その場合もやはり彼は何も言わない。

論文を読んでいる最中であっても、私が話しかけたら彼は身体の角度はそのまま、視線だけちらっと上げてこちらを見る。

そう、あの視線。

彼の視線は気だるげなのだ。それでいてこちらを惹きつける。おそらく彼の意図しないところでその目の魔法は発揮されている。

大学の友人である眼鏡の彼は、先日、ワニの筆箱の彼の視線のことを「アンニュイな眼差し」だと形容したけれども、私はそれがとても気に入った。アンニュイな眼差し。なんて魅惑的な言い回しだろう。

とにかく私はここ最近、周囲の友人たちにもばれちゃうほど彼に懐いていて、だからきっと本人にもばれているんだろうとは思う。

思うけれども、彼は今のところ私を拒絶しない。

***

彼は村上春樹の「ノルウェイの森」で卒論を書く。

先月、私はこのビートルズの曲を題に持った小説(上下2巻)を読破し、研究室にいた彼に「ねえ、ノルウェイの森読んだよ!」と声をかけに行った。

これが効果てきめんで、やはり自分の卒論の作品について他の仲間と話せるというのはすごくうれしいことなので、彼は「え、読んだの?」と目を丸くし、ウキウキと話してくれた。

彼のよいところは「どうだった?」と小説の感想を聞こうとしないところ。そのおかげで、私は好き勝手に思ったことを言うことができた。

「私直子より緑が好きだったな。直子も嫌いじゃないけど緑ってすごくかわいくない?」
「えっ、でもさ、緑一緒にいたら、絶対ウザイと思うよ」
「じゃあ直子の方が好き?」
「いや…緑だろ!」
「ほら見ろ!緑ってかわいいよね」
「それな?かわいいけどウザいし、ウザいけどかわいいよな」
「何回も『ウザい』って言うじゃん!」
「いやだって絶対そうじゃん!」

ここで直子が好きだと言われたら残念ながら彼とはそれまでだったけど、彼は緑を好きだと言ったので、私たちは女の子の好みについては問題なく話せるらしい(そういうことにしておく)。

最近の彼は発表資料の印刷方法が分からないと私の方を見て無言で手招きをしてくるし(「わかんないから助けて」と視線が訴える)、ゼミ中も目が合うと肩をすくめて笑ったりする。それがいちいちすごくかわいい。

***

そんな彼に私がはっきりと好感を持ったのは、マッシュボブの彼が、私に告白してから1か月ほどで別の女の子と付き合い始めたことを知り、それをワニの筆箱の彼に話した日だった。

私はその相手の女の子とも友達で、彼女に遠距離の恋人がいることを知っていたので最初はやきもきして様子を見ていた。

彼氏がいるはずの女の子にちょっかいをかける彼にも、彼氏がいるのにそれを許す彼女にも、すこしもやっとしたからだ。

しかし話を聞くと、どうやら彼女はきちっと恋人と別れてからマッシュボブの彼と付き合ったようなので、私はその事実を知ってかなり安心した。

とはいえ軽くショックを受けたのもまた事実だ。

誰かに告白され、しかも振るという経験がほとんどないので、私は私なりに気にしていた。自分が好きな男の子に振られたときの記憶を思い返しては「ああ…」と軽く落ち込んだりもしていた。べつに、だからってどうしようもできないのにね。でも私はそれが彼への誠意の示し方だと思ったのだ。

だからこそ、彼はたいして気にしていないのだということを目の当たりにして、すると彼のことを気にかけていた自分があほらしくなって、自分が心底いやになった。自意識過剰みたい。

もちろんこれはマッシュボブの彼が悪いわけではない。彼は友人としては最高に愉快で親切な男の子だと私は思う。

そしてなんでそんな込み入ったことをワニの筆箱の彼に打ち明けることになったかという経緯は、ここに書くとひどく長引くので省略するけど、とにかく彼は私の話を聞いて次のように口を開いた。

「〈青葉〉さん、彼氏と何年付き合ってる?高校んときからでしょ?しかも初めての彼氏でしょ?」
「えっなんで知ってるの?」
「え、だってこないだの飲み会のとき自分で言ってたじゃん」

彼氏がいることは言ったけど、「初めての彼氏」なんて言った記憶はなかったので、ちょっと恥ずかしくなりながら「まあそうだけど…」という趣旨の返事をすると、彼は私の方をまっすぐに見た。

「そんなんさ、付き合うってことに対する重さが絶対違うよ。だって〈マッシュボブの彼〉くん、絶対そんな〈青葉〉さんたちみたいに何年も付き合おうと思って告白してないと思うよ。もっと軽いと思う。だから別に、そんなに気にしなくていいと思う」

彼がこちらをまっすぐ見て言うので、私の方が先に目を逸らして、研究室の窓の外に視線をやった。空は暗くなり始めていた。私の胸には彼のその適度なやさしさがじわっと染みてきて、それにすごく癒された。

「気にしなくていいと思うよ」と言われるのがこんなにもほっとした気分になることだとは、思ってもみなかった。たとえ些細なことでも。

安心したせいか、気を抜くと声が震えそうになったので「そうかな」と言ったきり黙っていた。

そして同じ日に、私はマッシュボブの彼に対して何もなかったかのように振る舞うことを決めた。彼もきっとそれを望んでいると思った。

それからというもの、私とマッシュボブの彼は顔を見て普通に話す。何を思って私と話しているんだろうと最初は思っていたけど、今はもう思わない。

「話聞いてくれてありがとう」とワニの筆箱の彼に言うと、彼は「おれ完全に都合いい男じゃん」と目を三日月みたいに細くして笑ったけど、彼が本気でそう言っているのではないことも分かり切っていた。

私は「このひとはきっとマッシュボブの彼よりずっとやさしいひとなのだろう」と思った。

***

7月の頭、私は県の教員採用試験を受けた。

ワニの筆箱の彼も私と同じ会場で同じ試験を受けた。私がスーツで行ったのに対して彼は私服で来ていて、休憩時間になると、私は彼とふたりで混んでいないお手洗いを探しながら真っ先にそのことを咎めた。

彼の白いTシャツの胸元にはのんきそうな水色の猫のイラストがついていたので、私はその猫を指して「この猫に名前あるの?」と尋ねた。彼の持つワニの筆箱に、かつて「ヨモギ」という名前がついていたらしいことを私は知っていたからだ。

彼はすぐさま私をあのアンニュイな瞳で一瞥し、「なんにでも名前があると思わない方がいいよ」と言ってきた。

私はその返しがあんまりおかしかったので、歩きながらお腹をよじって笑った。教育委員会の試験監督たちに注目されないよう、必死に声を押し殺しながら彼の顔を見たら、彼は「いやこれは、本当に」と言いながら、自分でもちょっと笑っていた。

試験自体はお昼の1時前に終わった。

予測していた通り出来はぼろぼろだった。試験の数カ月前まで教師になるかどうかさえ決め切れていなかったのだから、準備が足りていないことは明白だった。それでも終わることには終わった。

試験の後、並んで会場を出ながら「お腹がすいたような気もするし、すいてないような気もする」と言うと、ワニの筆箱の彼は「え、飯食い行こうぜ」とさらっと言った。

私は彼がそんなふうに話すひとだとは思わなかったので、私は耳を疑った。今までそんな物言いをしたことはなかったのだ。

「ごはん」や「お昼」じゃなくて「飯」。
そして「食べに行く?」じゃなくて「食い行こうぜ」。

彼は私の前で猫をかぶるのをやめたなと、そのとき確信した。
そして彼がそうくるならば私も猫をかぶるのをやめようと思った。

私の恋人は、私が連絡さえすれば、男の子となりゆきでお昼ごはんを食べに行くことなんて気にしないと思ったので、私はその場で「いいよ。食べに行こう」と快諾した。

その日、私たちの住んでいる県は全国ニュースに出るほどひどい雨降りで、私たちは降り続く雨の中で傘を差したままバスを待ち、あれこれ話をした。どんな映画見るのとか、ジブリで何が1番好きとか、他愛のない話だ。

雨粒がときどき肩や手に落ち、絶え間ない雨が地面ではじけるせいで足元はしっとり濡れていた。蒸し暑い空気に包まれ、私も彼も軽く汗をかいていた。

そしてバスに乗って大学の近くまで戻り、彼のおすすめの担々麺のお店に案内してもらってお昼を食べた。

お店は「天真爛漫」という名前だった。のれんをくぐる前に「私、天真爛漫って言葉結構好きだよ」と言うとボソッと「それ〈青葉〉さんのことじゃないの」と声がした。私は彼からそういうふうに見えてるのかと思うと、にやにやしちゃいそうだった。私の目論見通りだったからな。

そしてそこで食べた担々麺は辛すぎなくて食べやすく、すごくおいしかった。「これめっちゃおいしい」と感想を述べると「え、だろ?いや、おいしいよなこれ?」と彼は目を輝かせていた。

そして食事を終えてばいばいと言って別れるとき、彼に普段のよそよそしさはなくて、笑いながら「じゃあね」と手を振ってくれたので、私はそこで初めて自分の勝利を確信した。

すなわち彼と仲よくなるというミッションがある程度の段階に達したことを、その日の彼の表情や態度から判断したのだ。

***

ここまでいろいろ書いてきたけれど、私が何よりも満足しているのは、SNSを一切使わず、学校で会ったときにだけ声をかけることで彼と親睦を深めてきたということだ。

これは私にとっては彼との間だけの素敵な事実なのだ。

SNSを使って普段から連絡を取っているから、そうでないひとより相手と親密だというわけはない。通信機器を使わない方がはるかにすばらしい関係性を紡げることだってある。

私と彼はおそらく今後もLINEやInstagramを交換しないだろうし、別にする必要もないから、卒業までこのままの状態でいくだろう。

もうすこし仲よくなって、お互いの面倒くさいところとか、いやなところとかまでもが見えるようになったら、たいそうおもしろいだろうと思う。それでも友達でいられたらもっといい。

あと半年でそこまでいけるかは分からないけれど、これからも彼の影を見つけるたび、私はにっこり笑って彼に挨拶をするし、おそらく彼はあのアンニュイな眼差しでそれを受け入れてくれる。

ワニの筆箱を介さずとも彼と話す術を、既に私は心得ているのだ。







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