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もうあの頃のようには小説を書けないけど

大学に入学して、小説についての勉強を始めてから、今まで書いていたようには小説が書けなくなった。

今までは好きなことを好きなように書けばいいと思っていて、だから結構のびのびとやりたいように文章を書き連ねていた。それが今になって、小説には書き手の意図があるということを嫌と言うほど思い知って、書けなくなったのだ。学ぶというのはすごいことだな、とつくづく思う。

小説にはルールのようなものがあるのだ。きっと他の分野でもそういうのがあるのだと思う。それらは音楽とか、美術とか、建築とか、何かを創り出す人々の領域では当然のごとく転がっているだろう。

私は本を人並みくらいには読んできたので、小説における「骨格」「骨組み」「ルール」といったものをいくらかは肌で感じていた。しかしそれは「感じていた」だけであって、実際そうだとはっきり認識していたわけではない。何かぼやぼやした小説の共通性や、漠然とした括りがあるのは見えていても、それらの輪郭や中身は分からないまま小説を受け取ってきたのだ。

だから大学に入って実際に小説を読みながら、それらを明確に、言葉として先生の口から聞いたとき、私は感動して授業中に目がうるうるしてしまった。興奮してずっと鳥肌が立っていたほどだ。

それを教えてくれる先生は私たちに対して繰り返し言う。「今あなたたちが学んでいることなんて、社会に出てから何の役にも立ちませんよ。でもね、今後小説を読んだり、映画やアニメを観たりするとき、今までとはちょっと違う見方ができるようになります」。

「役に立たない」と言い切ってしまうあたりが実にさっぱりとした先生で好印象だった。でも私たちは何の役に立たないとしても、それらを学びに大学へ来たのだ。先生も私たちにそれらを教えるために教壇に立っている。

「小説を書く」ことと「あらすじを書く」ことは全く違う。それを自分で確かめつつ学び、「人物の心情」以外の観点から作品を読み解くことができるようになるにつれ、私は今までのように小説を書けなくなっていく。

作家たちはあまりに偉大で、そしてひとつの世界を創り出すことはあまりにも緻密で途方のない作業だ。そのことを知ってしまったから、私はもう何も知らないまま楽しく小説を書いていた頃には戻れない。

でも大学に来てよかったと思う。今までとは全く異なる視点で小説を読めるようになりつつある。これは高校までの学びでは決して得られなかったものだ。ここへきて初めて、私は受験のための勉強ではなく、知的探求心に基づく学びを大学で展開しているのだ。

だから後悔しない。もう気軽な気持ちでは小説を書けないとしても、私は進学してよかったのだ。大学時代、一切の躊躇なく、本当に学びたいことを学び、それを純粋に楽しんだというその記憶は私の糧となり、これから死ぬまでの間ずっと私の心を明るく照らすだろう。



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