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「終戦の日」とは何か

 政治と宗教の話はしない。
 現代の日本社会では暗黙のルールであって、諍いの元になるからとそういう話題を避けるのが無難です。それはweb上も同じことで、炎上を避けるために触れないでおくというのが定石です。
 今日という日もスルーしていようかと思っていた矢先、noteで勇猛果敢な記事に出会いました。これをスルーしては男が廃ると思い執筆を始めました。

 8月15日。終戦の日。
 玉音放送から77年が経過しました。

 その戦争を「大東亜戦争」と呼んでいた祖父は、戦争経験者でした。本当の歴史がどうだとか、戦争に負けるとはどういうことだとか、折に触れてはそんな話をする祖父は、分かりやすく右に寄っていました。学校の授業で習った「歴史」とは印象の異なる「昔話」は、私の歴史観に影響を与えます。小学生の私に右寄りな歴史書や大東亜戦争肯定論なるアグレッシブな書物をプレゼントする祖父は、天皇を崇拝していました。
 今となっては眉を顰める人も多くいることでしょうが、しかしそれは、第二次世界大戦を当事者として経験した一人の国民として、ごく「自然」な考え方であったように思います。

 何が正しいのか。
 何か正しいのか。

 私自身には明確な判断を下すことは困難で、しかしながら現代の日本社会を包む異様なほどの「愛国心の乏しさ」「自尊心の低さ」は戦後教育の賜物と考えます。「自分の頭で考えず上の指示に従う」ような、ある意味で儒教的な教育は戦前から行われていましたから、今の日本の抱える問題の全てを求めることはできませんが、歪な国の在り方の根底には、自分たち(の国)は、世界的に絶対的に間違ったことを犯したのだという自己否定感が存在することを感じます。

 いつまで償えばいいのか。
 何を償えばいいのか。

 先祖の罪の償いというならば、彼らに罪はないのでしょうか。

 いかなる理由があろうとも、暴力は赦されることではありません。戦争という暴力を決して赦してはいけない。悲しいことは「赦してはいけない」と明記してルールを作らなければ、あるいは作ったとしても、人間という集団に暴力が自然発生するという現実です。

 何の為の言葉で、何の為の対話か。

 世界平和という言葉が虚しく響く終戦の日。

 終わってなどいない。忘れてはいけない。
 過去の歴史を正面から受け止めて語らなければ、人は同じ過ちを繰り返すかもしれません。臭い物に蓋をして忘れようとする文化は、問題の先延ばしにしかならないことに気付きます。建前社会は見かけ上平和でも、隠された心の不和は、やがて構造の崩壊を招くでしょう。

 国の数だけ「本当の歴史」があるのでしょう。
 それは主観の違いです。事実はひとつではない。

 ならば私は今日の日を「終戦の日」ではなくて、
 日本政府が表現した「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と捉えます。


 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。
 願わくは、世界平和を。


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