カナリアの追憶 【短編小説】
昼下がりの生徒会室。
穏やかな日差しがカーテン越しに室内を照らし、窓の隙間から香る新緑と土の匂いが心地良かった。
不意に背後から覆い被さるような柔らかい温かさを覚えて、僕は文庫本の頁をめくる手を止めた。
「ハルキ。」
耳元に響いた仄甘い声は、背筋を通って僅かに椅子を振るわせた。
「なに読んでるの?」
右頬に触れるほど近付いた彼女の横顔を視界の端に感じて、鼓動が加速するのを隠すように伸びをしてから僕は短く応えた。
「カフカ。あと近いよ、結依。」
彼女とは小学校が同じでよく一緒に遊び、中学に入ってからも同じ部活に所属して、生徒会に至るまで動向が一致する稀有な存在だった。
「うえぇ…カフカ?暗いなぁ。私ニガテ。」
カフカと聞いて苦手と言えるくらいには彼女もまた読書家だった。僕は生徒会長で、副会長の彼女と過ごす時間は自然と長くなっていた。結依は軽やかに身体を離すと近くの椅子に腰掛けて、ぐぐっと腕を伸ばして上体を反らした。
そんなに反るとヘソが見えるし、制服のスカーフのあたりの膨らみが目立
「いま見てたでしょ。」
急に姿勢を戻して屈んだ彼女と目が合った。
中学生男子の視線制御能力の低さを舐めないでいただきたい。どんな言い訳をしようかと考え始めたところで、彼女の纏う雰囲気が緊張を帯びていることに気付いた。
「ねぇ、私達って付き合ってる?」
思えば合宿での一件以来、妙に距離が近かった。
僕は好きだと思えばハグくらいするし、雰囲気が良ければキスもする。それが相手によっては一線を越えていることなのだと、当時の僕はあまりよく分かっていなかった。
僕は回答に逡巡して、どう思う?と訊ねた。
「えぇっ。…ズルい。」
関係性に名前をつけるのは苦手だった。
「付き合う」が特定の恋人に使う言葉だとしたら、僕は彼女の他に付き合っている子がいた。その子は彼女の友人だったと思うけれど、何も聞いていないのだろうか。
「付き合ってるって、噂になってるみたいだよ?」
その噂を流しているのは誰かね。勝手な噂を流されると身動きが取りづらくなるのだけれど。
そうなんだ、と応えて彼女の目をじっと見てから、手元の文庫本に視線を戻した。そうして何でもないことのように、悪くない噂だね、と言った。
「…ハルキのバカ。」
陽奈は微かに震えた声を残して、生徒会室を立ち去った。
好きか嫌いかでいったら勿論好きだったし、恋愛感情がなかったわけでもない。ただ、結依とそういう関係になるのは、何か少し違う気がしていた。
その後も生徒会の任期を終えるまでに彼女とはなんやかんやあったけれど、卒業後の進路も異なり、次第に連絡も取らなくなった。
以来会うことのなかった彼女と、8年ぶりに会うことになった。それは同窓会という名の奇妙な集まりで、十数名のうち男は2人だけだった。
彼女の薬指には綺麗な指輪が輝いていて、ひと回り年上の紳士と結婚したと嬉しそうだった。
「ねぇ、綾と付き合ってないの?」
8年前と変わらないノリで、彼女に声をかけられた。それは当時の話で、紆余曲折あって今は全然違うところで…と説明するのも面倒なことになりそうだったので、付き合ってないよ、とだけ応えた。嘘はついていない。
彼女は大きく溜息をついて、
「なぁんだ。ハルキ、まだ綾のことが好きなのかと思ってたのに。」
と言って笑った。
一瞬、もの寂しい表情が見えた気がしたけれど、それは僕の方の問題かもしれないと思った。
その寂しさを恋と呼ぶとしたら、僕はたしかに、あのとき彼女に恋をしていた。
ー了ー
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