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特急・古代への旅 4

日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちはまず出雲へ向かった。
その第4話である。

その4 出雲の原郷へ

奥出雲から、出雲の原郷へと向かう。

たたら
出雲では古来、良質な砂鉄を産した。
鉄は農耕と軍事に欠かせない。鉄を持つ者が強い勢力となる。
出雲の力はそれゆえ強大となった。
 
たたら製鉄は、山砂を掘り崩して水で流す「鉄穴流し」ではじまる。
大量の土砂が川に流され、そのため斐伊川などは川底に堆積し、天井川となって洪水を繰り返した。
島であった島根半島を陸続きにし、日本海に流れていた川筋が宍道湖に流れ込む暴れ川となった。国引きやヤマタノオロチの神話のごとく。
砂鉄を大量の山の木と強力な吹子の風で熔かし、良質な玉鋼を生産する。
それが農具となり武器となり、後世の名刀を生み、出雲の玉鋼は列島を席巻した。
世界唯一のたたら製鉄は、戦後途絶えたが、奥出雲・横田の日刀保たたらが復活を果たし、今日も続いている。

須我神社
出雲大東駅から、海潮温泉を通って松江に向かう県道松江木次線沿いに、須我神社がある。
ここも静かで簡素な社である。境内には相撲の土俵はあるが、人の気配はない。

古事記によれば、天上から追われ出雲の髪上峰に降った速須佐之男命(スサノオノミコト)が、肥河(斐川)の川上でヤマタノオロチを退治した後、稲田姫と暮らす宮を造った所とある。

スサノオは「吾此地に来まして、我が心須賀須賀し」と云い、立ちのぼる美しい雲を見て。「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる其の八重垣を」と詠ったという。

オロチに襲われる稲田姫を、八重垣で守り、大蛇を退治して結ばれたスサノオと稲田姫。
日本初之宮であり、和歌の発祥地であるとされ、出雲の国名の起源だと社記は書く。

主祭神は速須佐之男命(スサノオ)と奇稲田比売命(稲田姫)、そして二人の子・清之湯山主三名狭漏彦八島野命(八島士奴美神)である。磐座のある須我山は、宍道湖や大山を望む景勝地であるから、おそらく須我山を地主神として祀ったのが起源だろう。

須我山に連なる八雲山の反対側には、意宇川沿いに熊野大社が鎮座する。
須賀という地名は全国津々浦々に存在するが、須我は蘇我をも連想させる。

スサノオが高天原を追われて降る途中、蘇民将来に茅の輪を授けて災いを祓ったことに因んだ茅の輪くぐりは、全国の神社で行われている。

この神社と島根半島の佐太神社だけで行われる莫座替祭という祭りがある。
古くは佐太神社近郷の新莫座を主体に各地の生産物の交換市が立ち、夜通し賑わいを極めたという。今でも須我神社前は市場という地名である。

出雲の神話世界と現実をつなぐ由緒ある神社である。

 

大庭
須我神社から川筋ひとつ隔てた意宇川の下流、松江市の南部にある大庭の地は、古代出雲の王、意宇(おう)王の本拠地であった。
古代出雲東部は、意宇(おう)の国と呼ばれていた。

そういえば意宇国の王、オウクニの主は、大国主を連想させる。

 出雲は5世紀ごろ、吉備勢力の侵攻を受けた。
出雲西部を支配した神門(カンド)氏勢力は吉備と対峙したが、屈服。
一方、東部の意宇の王は吉備との共存を図り、その後、大和との抗争によって吉備が出雲から退いたあと、意宇王は出雲西部にも勢力を広げ、出雲世界の王となった。
しかし、大和勢力の伸長とともに、意宇王は国造となり、地方官としての国造家となった。
そして大和からの国司が派遣されると、神祇を司る神主として熊野神を熊野大社に祀り、記紀の出雲神話に従って、杵築に杵築大社(出雲大社)を造り祭主となった。
そののち、千家・北島国造家は連綿として出雲大社の宮司を勤めている(門脇禎二「出雲の古代史」)。
現在その八十四代目が神主となり、1994年には皇室高円家と千家家の婚姻が、驚きをもって話題となった。大和と出雲の婚姻である。
出雲国庁跡が残るこの大庭は、古代出雲・意宇国の中心であり、現在も八雲立つ風土記の丘博物館などが建ち、古代出雲世界の歴史風土を伝える地となっている。
 
八雲立つ風土記の丘周辺には、山代・大庭古墳群の山代二子塚古墳や鶏塚古墳などが密集している。それらは四角い方墳であったり前方後方墳などである。
出雲東部には、安来付近の飯梨川流域に四隅突出型墳丘墓の仲仙寺古墳群が存在する。
出雲には古代、3つの大きな神域があったという。
意宇の熊野の大神、島根半島の佐太の大神、、そして東部飯梨川や伯・川地方の能義(ノギ)大神である。能義神社は今も存在している。
西部の神門(カンド)氏が祀った杵築の神(現在は出雲大社)は、大神とはされていない。
仲仙寺古墳など東部の四隅突出型墳丘墓は、おそらくそのノギ大神を仰ぐ勢力が築いた墳墓であろうといわれる。
そののち、出雲東部を見渡す台地上に、大型方墳の造山古墳が造られ、現在は王陵の丘公園になっている。意宇王の力がノギ神の地域にも広がったことを示している。
入海や島根半島をも見下ろす造山古墳は、出雲に君臨する王の勢威を示すとともに、大和などとは違う、出雲の方墳の伝統を物語ってもいる。

出雲を訪れると、そこここで「正史」には書かれていない「現場」に出会える。日本の歴史の真実を探るために、出雲の次の現場を訪ねよう。


 

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