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「奴隷ラムシル」連載化構想 その12 死と隣合わせの自由

 人間は面白い考え方をするものです。人間はいつでもかなり確実なものとして想定していて、その想定に従って行動します。勉強をちゃんとすると高いレベルの学校に入れて、そこでまた勉強をすると良い仕事に就けて高い収入が得られます。あまりにもそれは当たり前ですから、皆そのやり方に従おうとします。

 その結果はどうなっているでしょうか? 私に関して言えば惨憺たるものだったと言う以外ありません。そうして改めて振り返ってみますと、人の人生はそうした確実な何かというものはほとんど無かったとわかります。良い事があったとしても、それは予想に従って何かをしたからではなくもっとずっと短期的な要因によるものか、ほぼ偶然の産物でした。例えば、今私はこの場所のこの家のオーナーになって住んでいる事でさえ、以前に住んでいた場所を出たほんの4ヶ月前にも知る事はできませんでした。予想は覆されるものですし、ほとんど何の意味もありません。

 予想や予測が意味を成さないとして、それは人にとって良くない事でしょうか? これは以前のジョルジュ・バタイユのところでも書きましたが、人間の特徴として一般にあげられる歴史観的な生き方、つまり未来の何かの為に今こうする的な生き方が本当に人間的で幸福な生き方と言えるかという事があります。ああすればこうなるはずだから今こうしなければならないと考えて生きるのは自由でしょうか? ある仕組みの中でその仕組みに従って安全な生き方をするのはある意味幸せではありますが、その仕組みは本当に自分自身のものと言えるでしょうか? 難しい問題です。

 別の方向からの話をしましょう。私たちは何が正しい、何が間違いだと自然に決めて生きています。その正しさは私たちの心の中で神のように絶対値となります。それは本当にごく自然にそうなっていて、自分に間違いが有れば自分を責め、他人に間違いがあれば他人を責めます。その正しさは本当の正しさでしょうか? その正しさを決める時に、実際には誰かや組織や仕組みや法律やモラルや慣習に従ってはいなかったでしょうか、自分でそれを考える代わりに。こんな動画はいかがでしょう?

 この動画とTweetの趣旨とは違う趣旨で引用をしていますのでご注意ください。マイルス・デイビスはハービー・ハンコックのミスをミスでなくて想定外として解釈しました。何かについてそれが正しい、間違いと考えたとしたら、私たちは自由の中にいるのではなく、何らかの拘束の中いいると考えるべきでしょう。音楽を演奏する時にはある種のジャンルの中にいて観客の期待の中にいます。そこから簡単に逸脱するのは難しいものだと思われます。

 ですから私たちは常に何かの列を構成しています。列の中の一つのパーツでいようとします。まるで一連の背骨を構成する1個の骨のようです。背骨の列を外れてしまうとそこにあるのは死です。それが背骨の仕組みであり、世の中の仕組みでもあります。


 ラムシルの話です。ラムシルはエリスの助けで拘束から解放されました。ですが、エリスは死に一人になります。エリスはラムシルに「これであなたは自由になった」と言い残します。ラムシルは一人で砂漠を歩き続けますがそこで見つけた物は人骨です。さらに歩き、助かろうとしますが、助かるにはまた自由を手放さなければなりません。

 お話の方はもうちょっと考えます。ではまた。

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