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映像翻訳者が厳選! グッドバイブスな洋画 #3 『ギルバート・グレイプ』 (1993)【80億分の1の役割】

◎2大俳優の若々しい演技が光る秀作

いまではハリウッドのベテラン俳優であるジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオが、30年ちかく前に『ギルバート・グレイプ』で共演していたのは奇跡かもしれません。当時まだ若手だった2人の演技を超えた純粋な姿には、いまでも胸を打たれます。

メガホンをとったのはスウェーデン出身のラッセ・ハルストルム監督です。

彼は第60回の米国アカデミー賞のときに、スウェーデン語の作品『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』が外国語映画賞ではなくいきなり監督賞にノミネートされたことで注目をあびました。

それがきっかけでハルストルムは拠点をアメリカに移します。家族の絆や人々の心の機微をあたたかい視線で描くことに定評のある彼の作風とこだわりは、スウェーデンを離れても変わることはありませんでした。

ハリウッドに進出して2本めにあたる本作でも俳優陣は監督の期待にこたえ、みな自然体のすばらしい演技を見せています。なかでもディカプリオは知的障がいのある青年アーニーを驚くほどリアルに演じきり、19歳で第66回のオスカー助演男優賞にノミネートされました。

そして、ハルストルムらしい視点から生み出される美しくも寂しげな映像は、私たちにアメリカの片田舎に暮らす人々の日常を実際に見ているような錯覚さえおこさせてくれるのです。

◎ギルバートをイラつかせているものとは?

なだらかな起伏のある平原を細い一本道が貫いている。その両側にポツンポツンと家が点在するアイオワ州の架空の町エンドーラがこの物語の舞台です。ジョニー・デップ演じるギルバートが、冒頭のモノローグで自分の町をこのように説明しています。

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エンドーラ。僕らの暮らす町。
まるで音楽抜きのダンスのようなところだ。
目新しいことなど何も起きやしないし、
それは永遠に変わらない。
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24歳のギルバートは地元の小さな食料品店で働きながら、他界した父親と、家を出た兄に代わって家族を養っています。

母親のボニーはかつて明るく美しい女性でした。でも17年前に夫が亡くなったあと過食症になってしまい、いまでは近所の子どもが面白がって見物しにくるほど体が大きくなり、この7年のあいだ1度も家から出ていません。

姉のエイミーは、そんな母親にかわって家事をきりもりしています。15歳の妹エレンはギルバートに少し反抗的で、自分のことが何よりも気になる年ごろです。そして知的障がいのある17歳の弟アーニーは、いつもギルバートと行動を共にしています。

父親が自力で建てた家はあちこちガタがきていて、それを修繕するのはもちろんギルバートの役目です。手伝ってくれる友人はいるものの、彼がいなければ家のいろんなことが回らなくなります。その上、目が離せないアーニーやリビングのカウチに座りっぱなしの母親を抱えて、若者らしい自由などほとんどないような日々をギルバートは淡々と過ごしているのです。

この作品には『何がギルバート・グレイプをイラつかせているか?』という長めの原題がついています。

家族のことだけでもイラつく原因はいろいろあるように思えます。でも、それだけではありません。

国道沿いにある大手のスーパーがセールやイベントをおこなうと、ギルバートが働く店の客足は大幅に減ってしまいます。彼はそのたびにオーナー夫妻を元気づけていますが、本当はスーパーに太刀打ちできないことなど百も承知です。

またギルバートは近所に住む主婦のベティ・カーバーと火遊びのような不倫をしています。ベティの夫がそれに気づいているのかいないのかは微妙なところです。そんな夫があるとき急に「今度、私のオフィスに来なさい。話がある」と言い出します。ギルバートは「バレたのかも」とビビりますが、ベティはさほど気にしていません。

さらにアーニーは、ちょっと目を離すとすぐに高さが20メートル近くある鉄塔に登る騒ぎを起こします。彼を説得して下りてこさせるのもギルバートでないとできません。そのたびに大勢の野次馬の目にさらされ、保安官からは「いい加減にしろ」と何度も注意を受けています。

これがギルバートの日常の一部です。兄のラリーが町を出ていったのもなんとなくわかる気がします。でも残されたギルバートにとっては、家族を放りだして町を出ることなどありえない状況です。

ただ私には、ギルバートがこんな毎日をいやいや生きているようには見えないのです。

アーニーはもともと医者から「10歳までもたないだろう」と告知されていました。その歳をとうに過ぎてもうすぐ18歳になるいまは「いつ死んでもおかしくない」と言われています。そんな弟について、ギルバートはモノローグでこう語っています。

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生きていてほしいと思う日もあるし、
そう思わない日もある。
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また、友人に「お袋さんはどうしてる?」ときかれると、サラッと「太ってる」と答えて「そんなこと言うもんじゃない」と諭されたりします。でも、それだって別に悪意があるわけではなく、単に事実だからそう言っているだけに聞こえるのです。

その証拠に、ギルバートは母親をとても大切にしていますし、どんなに大変でもアーニーを守ろうとうする姿勢は崩しません。弟がいじめられるのを決して許さず、本人にも「誰かがお前を殴ったり、少しでも傷つけたりしようとしたら俺に言うんだぞ。とっちめてやるから」と、いつも優しく言い聞かせています。

きっとギルバートは自分にとても正直な人なのでしょう。アメリカ中西部の小さな町で生まれ育ち、身のまわりのことをすべて受け入れ、ときどき少しだけイラつきながら生きてきたのです。

そんな彼を象徴する台詞があります。

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ギルバート:もう寝なきゃだめだよ。
アーニー:わかった。さよなら。
ギルバート:いや「さよなら」じゃない。「おやすみ」だよ。
    「さよなら」はどこかへ行くときに言うんだ。
    けど僕らはどこへも行かない。だろ?
アーニー:わかってるよ。
ギルバート:じゃあ、また明日。
アーニー:僕らはどこへも行かない!
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そう、ギルバートは「どこへも行かない」のです。

このときまで彼の頭のなかにはそれ以外の選択肢など浮かびもしなかった、と言えるのかもしれません。

そんなギルバートの日常に、ある変化がおとずれます。それがきっかけで、これまでほんの些細なものだった彼のイラつきは急に大きくなっていきます。そして作品のなかに何度も出てくるこの「どこへも行かない」という言葉も、物語が進むにつれて彼にどんどん重くのしかかっていくのです。

◎「旅人ベッキー」と「どこへも行かないギルバート」

ある日ギルバートは、キャンピングカーの故障でしばらくエンドーラに滞在することになったベッキーという同年代の女性と出会います。彼女は祖母と2人で各地を転々としており、ギルバートとは真逆の生活をしている自由人です。そんな彼女の枠にとらわれない考え方がよくわかるこんなシーンがあります。

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ベッキー:私は外見の美しさなんてどうでもいいと思ってる。どうせ長続きしないんだから。
ギルバート:たしかに。
(中略)
ベッキー:大切なのは何をするかよ。
ギルバート:そうだね。
ベッキー:あなたは何をしたい?
ギルバート:何かな? ここじゃそんなにすることがないから。
ベッキー:ここでもやれることはひとつくらいあるはずよ。
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ギルバートは答えずに笑ってごまかします。でも彼女と出会ったことで初めて自分の日常を客観的に眺める機会を得て、ギルバートの心はざわつき始めます。そしてもっとも大切にしていたはずの家族との心の距離を見失ってしまうのです。

「人は恐れや不安を感じるとおかしな行動をしてしまう」

まさにグッドバイブスで言われている通り、得体の知れない不安や焦りを感じたギルバートは、これまで大事に守ってきたものをみずから壊してしまいます。

でもすぐに激しい後悔の念におそわれ、自分の居場所がなくなってしまったような孤独にさいなまれるのです。

◎誰もが80億分の1の役割をもっている

ギルバートはもちろん、ママもエイミーもエレンもアーニーも、グレイプ家には欠かせない家族の一員です。

アーニーはママから「私の太陽」と呼ばれています。エイミーは常に影からギルバートを支えています。普段はギルバートやアーニーを煙たがってるエレンですが、アーニーの誕生パーティーの準備には余念がありません。家から出ないママも、アーニーがピンチになったとき、息子を救うためにギルバートたちも驚くような行動にでます。

「人はみな、それぞれ役割をもって生まれてきた」

こんな当たり前のグッドバイブスな事実を私たちはほとんど自覚することなく暮らしています。

その役割には「誰かに何かをしてあげる」という明確な形であらわれないこともたくさんあります。なかでも究極といえるものが、グレイプ家のなにげない会話の中に出てきます。

「いるだけでいい」

家族がアーニーに言う言葉です。

たとえどんな境遇にあっても、その人にしかできない役割がかならずあるのです。

「ひとりひとりに備わっている唯一無二の役割」

私はこれこそ作品の大きなテーマだと思っています。

この映画には「間の悪い人」がたくさん出てきます。「間の悪い出来事」もいろいろ起こります。

そんなシーンを観ると私たちは当然、クスっと笑ってしまったり、「ええっ?!」とツッコミを入れたくなったりします。でもそんな反応をした次の瞬間に、ハっとして心の奥がキュンとなっている自分がいるのです。

間の悪い人でさえ、それに関わる誰かに何かを与えている。

物語の流れのなかでそのことに気づかせてくれる監督の手腕には目を見張るものがあります。そのあたりの演出のさじ加減が絶妙なのも、この作品の魅力のひとつといえるでしょう。

「だとしたら自分の役割ってなんだろう?」とあらためて探す必要はありません。それは、私たちがそこにいるだけで自然に発揮されるものだからです。これはグッドバイブスの「誰もが生まれながらに価値マックス」にも通じる真実です。

ハルストルム監督は、そんな人間のグッドバイブスな本質を見事に自然な形でスクリーンに描きだしています。大げさすぎず、シリアスすぎず。さりげなく切り取ったシーンの積み重ねによって、観ている私たちにそれを実感させてくれるのです。

自分を見失いそうになっていたギルバートはベッキーに癒やされ、自分がこれまで果たしてきた役割に気づきます。その役割のおかげで自分もたくさんのものを与えられてきたことにも……。

そんなとき、家族にとって大きな出来事が起こります。

そしてギルバートはグレイプ家の人間として、家族を守る大黒柱として、最大級の「愛の選択」をするのです。

◎なにげない会話のなかの深い台詞

この映画には先にあげたもののほかにも、なにげなくかわされる会話のなかに深い言葉がたくさん出てきます。どれも、そのシーンを観ているときには聞き流してしまうのですが、物語が進むにつれてジワジワと効いてくるのです。

きっとあなたも心に響くすてきなフレーズに出会えるはずです。

ここでは私が好きなグッドバイブスな台詞を1つだけご紹介しておきます。

「誰も悪くない」

どんなシーンに出てくるかは、観るまでのお楽しみに。

そして、ラストでギルバートが語るモノローグの余韻をじっくりと味わってください。

☆『ギルバート・グレイプ』 (1993)
原題:WHAT'S EATING GILBERT GRAPE
監督:ラッセ・ハルストルム(『マイライフ・アズ・ ア・ドッグ』、『サイダーハウス・ルール』、『ショコラ』)

原作・脚本:ピーター・ヘッジズ(『アバウト・ア・ボーイ』脚本)
出演:
ジョニー・デップ(ギルバート・グレイプ)
レオナルド・ディカプリオ(アーニー・グレイプ)
ジュリエット・ルイス(ベッキー)
メアリー・スティーンバージェン(ベティ)

【配信サイトリンク】
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【グッドバイブス関連】
書籍:『グッドバイブス ご機嫌な仕事
公式サイト:グッドバイブス公式ウェブ

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