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ダウン症〜21トリソミー〜

少し前、妻のお腹の中にいる赤ちゃんがダメになってしまい、流産手術をした。

流産手術では子宮の中を掻き出すのだが、それで出てきた赤ちゃんの細胞を使って検査することができるらしい。出生前診断と同じ検査を、掻き出した赤ちゃんの細胞でやる、ということのようだ。

出生前診断を、私たちはまだしていなかった。これからだった。妻と色々相談して、母体の血液検査だけでできるという、クアトロ検査というものをする予定だった。その矢先であった。

出生前診断をすることは決めたものの、もし陽性だった場合にどうするかは決まっていなかった。診断をすることもかなりもめた。妻はしたくないと言った。私はしたほうが良いと言った。結局、建設的にメリットとデメリットを比較して議論することなどできない。どちらがの主張が通り、どちらが折れるか。それだけだった。私は折れず、妻が折れた。

検査の結果は、21トリソミーだった。いわゆるダウン症である。

残念だったね。と言い合ったが、それだけだった。

息子はいま、3歳だが、お腹の中にいるうちから愛おしかった。嘘ではない。本当に、愛おしかった。エコーで見るだけで可愛かった。

ダメになった赤ちゃんにも、愛情は生まれていた。これも嘘ではない。愛おしかった。本当だ。男の子かな。女の子かな。まだ早いよな。でも楽しみだな。妻のお腹を撫でて、そう話しかけていた。

残念だった。悲しかった。本当だ。妻より私が悲しむのは違うと思って、意識してそんなに気にしてない風を装ったものの、気が緩むと涙腺が決壊しそうだった。でもその中で、少しだけ、ほんのちっぽけではあるが、違う感情もあった。

どこか、ほっとしていたのだ。

もしこのまま生まれていたら、ダウン症の子供だった。それが、ダメになってしまった。そうか。うん。

それがどんなに残酷で卑怯な感情か、私は正面から向き合おうとしなかった。知らないふりをした。気づいていないふりをしていた。忘れようとした。だが、忘れようとすればするほど、忘れられなくなっていた。

妻のお腹に宿ったいのち。我が子である事は間違いない。ダメになってほっとするやつがどこにいる?自分の中の8割はそう言っている。だが2割は、違う方向を向いていた。よかったじゃないか。無事に、、、無事と言おうかなんと言おうか、生まれてきたとて、どんな人生になっているかわからんぞ。お前も、本人も。奥さんも、息子も。

見ないようにすればするほど、直視することになる。考えないようにすればするほど、思考が深まっていく。涙など出てこない。これでよかった、と自分の中の2割が言っている。本当に2割か?よかったと言っているのは8割の方ではないか?きちんと自分と向き合え。

頭の中がぐるぐるする。こんな問いに結論などない。わかっている。科学で答えられない問題。正誤のない問題であることはわかっている。わかっている。

子供が欲しい、と望むことに罪はないが、なかなか残酷だなと思うようになった。子供が欲しいのではない。「健康で障害のない、普通の子供が欲しい」のだ。障害は個性などではない。歌の上手い子供を欲しがる親がいたとしても、手のない子供を欲しがる親はいない。

Youtubeで見た動画で、出生前診断の結果、ダウン症とわかった赤ちゃんが、やはり途中でダメになった夫婦が紹介されていた。ひどく悲しむ妻に、夫は「そろそろ元気出したら?」といった声をかけたという。生命に対する価値観の違いから、彼らは離婚したらしい。

愛し合って結婚し、愛し合って妊娠したはずなのに別れる。彼らの愛し合った証拠となる子孫は生まれない。なぜこんなことが起こるのだろう。こんなことを繰り返して、障害をもつDNAは淘汰されてきたのだろうか。ふとそんなことを思う。

もし次に妊娠した時があったとしたら、おそらく出生前診断をするだろう。その結果が陽性だったなら、そのとき私はどうするだろうか。もしくは陰性だったとき、どの面下げて喜べるだろうか。

きちんと向き合え。人生そんなこともあるよね、で済ますな。他人任せにせず、諦めず、悩み、考え続けろ。自分にできることは、それだけだ。

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