スプラッシュゾーン01

『スプラッシュゾーン 落下の時空』

○序章

 月が、出ていた。
 少年は、ただ見上げていた。

 夜空を、見ていた。
 不乱に、見ていた。

 やがて、月は隠れ、星も姿を消した。空は闇に包まれた。少年は、ひたすらに、ひたすらに溶け込みそうな夜の色を見つめていた。闇が全てを覆い尽くしてしまうような深夜に、それはやって来る。父親は言った。それが今夜なのだと。
(それを見たことはまだ僕は無いから……)
 少年は何がやって来るのか、そしてどうなるのかは全くわからない。
「しずくが落ちるとき、どうすればいい?」
 彼の問いに対する、父親の答えは至って簡単だった。
「何もしなくていい。ただ見ていろ」
 それが我々『番人』の仕事なのだ、と彼の父親は言った。しずくは必ず同じ場所に落ちることはない、だからよく見て落ちる場所を見極めよ、とも。
(そうは言っても、ただ見るだけで見極めることなんか出来るのかな)
 少年は無邪気そうな顔立ちとは裏腹に妙に理屈っぽいところがあった。対して父親は至って無口で、必要以上のことを言うことがない。
(父さんは今どの辺りにいるんだ?)
 少年が立っているのは、山間の谷あいに位置する草原であった。夜の闇に囲まれた今は昼間以上の広さに感じられる。父は草原の先の更に落ち込んだ斜面に行っている筈だ。落ちる場所は、しずくの多少の揺るぎでもずれることがあるという。
(あれ?)
 一瞬、空が揺らいだ。しばしの間を置いて再び揺らぐ。間違いない。
「父さん!」
「ドルワよ、落ち着け!」
 すかさず父からの声が聞こえる。
「空をよく見ろ!」
 まるで空に膜が張られているかのようにぷるん……ぷるん……揺らぎが走る。山も空もない暗闇の中、揺らぎの波がしらがぼんやりと光っている。
(空の……膜?)
 彼の父親にドルワと呼ばれた少年は、あまりの出来事に空をじっと見つめていた。父の言いつけもあったが、初めて見る揺らぎの美しさに心躍らせていたからに他ならない。
(揺らぎの中心……何かが上ってくる)
 ドルワは、以前泉で見た巨魚を思い出した。ゆらりと水底からその影を現すと、水面を盛り上げ大きく跳ね上がる。キラキラと水滴をまき散らしながら再びその巨躯を水底に沈めたあの魚……父はそれはあの泉の主だと言った。以来、あの魚を見たことはないが、あの水面から飛び上がる様子は今でも目に浮かぶ。
(空は上にあるのに、上がってくるっていうのはおかしいな。この場合は…下りてくるんだ)
 そう考えながら、ドルワは戦慄した。
(何かが下りてくる?空から?)
 揺らぐ空が、あの時の沼の水面のように膨れあがっているようにも見える。
(一体何が……)
 胸が震える。その時父の声が飛んだ。
「来るぞ!」
 ドルワはさらに用心深く上空を見た。
 ますます空はぼんやり光りながら膨れあがる。その中央部分に映る影はどんどん大きくなり、やがて膨れた空の中心に一筋の傷が入った。糸状のそれはゆるやかに、しかし確実にその大きさを増していく。傷口はなかなか開かず、粘度の高い膜がまるで抗うかのように傷口をふさぎ、ふさいでは開くを繰り返していたが──
「あっ」
 空の傷は襞のようになり、空の向こうから何かをひねり出すかのように見えた。
(何かが、出てくる……)
 声も出ないドルワはじっと見つめる。大きく膨れあがった空の膜はそれ自体が生き物に見えた。よじるように空はねじれ、大きく息を吸うように一瞬膨らみが引っ込む。
「がんばれ!」
 ドルワは思わず口に出して祈っていた。飼っていたヤギが出産をしたときの記憶が頭によぎる。あの時は母子共々死んでしまい、ドルワは三日間泣き続けた。
「こっちは上手くいってくれよ…」
 やがて、産道から抜け出すように透明な球体が姿を現した。これも固くはないらしく、襞の伸び縮みに合わせて、自身の形を変えて少しずつ露出を増していく。
「あっ」
 ついに、それは放たれた。大きな水玉のような透明な球体は膜を破り、重力に引かれて落ちていく。天空の襞はぽっかり丸い穴を開け、まるで余韻を愛おしむようにうごめいていた。その穴の向こうに、ドルワは何か自分たちの世界と異なる、尋常ならざる空間を一瞬見たような気がした。
(あれは……)
 瞬間、襞は生き物のように再び絡み合い、膜は夜の闇に溶け込んでいった。向こうの世界を思う間もなくドルワはフラフラと球体の行方を追う。足が地に着かない。
「ドルワ!」
 そんな彼の様子が見えているのか、遠くから父の叱咤が飛ぶ。何度か転びそうになりながらもドルワは走る。
(しずく……)
透明の球体はきらきらと煌めく。しずくそのものが内側から輝いている。星の重力に導かれ、しずくは地表に落ちて、弾けた。散らばる光の粒はキラキラと周囲を照らし、激しくなく眩しくない。その優しさ、美しさに思わずドルワは立ち止まる。
(綺麗だ……)
 父の大声が再び飛ぶ。
「まずは五体満足かどうか!それから辺りに飛び散ったものを確認しろ!」
 再び夢うつつになりかけていたドルワはあわてて首を振る。
(五体? 飛び散った?)
 再び走る。いやな予感がする。
(生き物なのか?)
 ヤギの死産がドルワの頭をよぎる。
(大体、あんなに高いところから落ちてくるなんて尋常じゃない)
 しかしドルワはどんどんその歩を進めていった。湧き起こる好奇心が恐怖に勝り、彼は落下地点に近づいた。
「?!」
 かなり広範囲に飛び散ったのか、或いは落ちた勢いが強かったのか。落下の中心から放射状にしずくの欠けらは飛び散っていた。早くも欠けらはその形をどんどん縮め、消えていくようであった。
「……」
 ドルワは絶句、そして赤面した。しずくの欠けらが煌めく中で、白い塊が一つ倒れていた。
「お……ん……な……?」
 塊は、一人の女であった。

   ×   ×   ×

 空から落ちた、大きなしずく——
 地面に激突し、それは弾けた。
 一人の女がその中に、いた。

 ドルワはおそるおそる近づく。
 女は胎児のように膝を抱えている。体はピクリとも動かない。全裸だった。

 肌は、白い。
 髪は、黒い。

 あたかも体がぼおっと光をともしているかのように、その肌の白さは際だっていた。ドルワが振り仰ぐと、いつの間にか暗闇は姿を消し、普段見る夜空に戻っていた。息を殺して隠れていた星々は、ほっと深呼吸をするかのようにまたたき、少年と女を照らしていた。

「ええと……」

 身長はドルワよりも高そうである。
 黒髪は長く、意外に筋肉のついたその肢体に絡まっている。前髪が乱れていて表情はよくわからないが、鼻筋がすっと通り、ふっくらとした唇の色は紅かった。組んだ腕の間からは二つの大きな膨らみがはみ出して見える。

「!!」

 ドルワは思わず目を逸らそうとした。しかし、胸の膨らみが微かに動いていたのに気づくと、再び注意深く見つめ直した。規則正しいその動きは、女が生きて呼吸をしているあかしであった。

「大丈夫だったか?」

 後ろから父親が声を掛ける。
「あ、う、うん……」
「辺りには何も無かった。持ち込んだものはその手に握った一振りだけか」
「え?」
 ドルワは赤面しながらも胸の前で組まれた両手を見た。互いの指を組んでいたと思っていたが、女は手に棒状のものを握りしめていた。
「気がつかなかったようだな」
 珍しく父は笑った。
「だって、綺麗な人だから……」
 消え入りそうな声でつぶやくと頭を掻いた。父のことだから、きっと自分が胸に気を取られて手元に気づかなかったということまでお見通しに違いない。ドルワは折角だからと開き直ってあらためて女を見た。

 肌は、白い。
 髪は、長くて黒い。
 腰はくびれ、胸は大きい。
 尻から足の肉付きも美しい。

 ドルワの父はてきぱきと背中の袋から毛布を取り出すと、女の体をくるみ、抱え上げた。
「さぁ、行くぞ」
「はい」
 二人は女を連れて草原を立ち去った。

   ×   ×   ×

 ドルワとその父親が暮らす家は、草原から谷間の道を通って森を抜けたところにあった。少し離れたところには泉があり、燃料の薪を拾うのにも都合のいい。家屋敷……というには粗末な建物は巨木の下にちょこんと建てられ、そのかたわらにはさらに小さな小屋と以前に死んだ山羊の家畜小屋が並んでいた。父親は女を小さな小屋に運び込む。
「ここで見ていろ。この人が目覚めたら私に教えなさい」
 女を寝所に寝かせると父親は出て行った。後に残されたドルワは、取りあえず飲み水を汲むと、女のかたわらに座り込んだ。

「……」

 父親に見ていろと言われたからではない。ドルワが彼女を見つめていたのは、その美しさに惹かれていたからであった。

 彼は母親の顔を知らない。今の父親であるマッセも彼の本当の親ではなかった。彼は気がついたら王都の施設で暮らしていた。数年前、養子としてマッセとこの山奥で暮らすようになったのだ。

(僕もマッセ……父さんのように『番人』になるのかなぁ……)

 マッセは山にやってきたドルワに様々なことを教えた。狩りや野草の知識、炭焼きや鍛冶仕事…無口ではあったが父の優しさは充分ドルワの心に届いていた。だからこそ厳しさに耐え、様々な知識を身につけた。その上、ドルワは生来の人なつこさからか、対人関係の巧みさはマッセ以上であった。
「お前の口先には、私は教えることは無い」
そう言って時折、王都に用事を言いつけては自身の代理として『番人頭』の元へ使いに出すこともたびたびだった。

 番人——王都から各所に派遣された、文字通り見張りをする人。それは空に浮かぶ『門』から出現する様々なものを見張り、記録して王都に引き渡す役人のことであった。『門』が出現するのはマッセが詰めている山奥に限らない。海の孤島もあれば、荒野の大峡谷にもある。ただし、何人の番人が派遣されているのか、何処の場所に門が出現するのかは、王都においても王や番人頭など、限られた人間しか知らない秘密事項であった。
 たびたび王都に使いに行かされたドルワであったが、『番人』そのものについては何もマッセからは教わることはなかった。第一、ドルワが山にやってきて以来、番人としての仕事をしている素振りは全くない。
(一体番人って何をする仕事なのかな?)
そんな日々が二年続いたある時のこと、マッセがこうつぶやいた。

「久しぶりに『しずく』が落ちてくる。今回はお前にも手伝ってもらおう」

 ドルワがやって来てから、初めての『しごと』であった。
「一体何をすればいいんですか?」
「空が闇に包まれたとき、大きなしずくが降ってくる。我々の仕事はその回収だ」

(空からしずくが降ってくる?)

 最初は何が何だかわからなかったが、まずはやってみないとわからない。
「わかりました。お役に立ちます!」
「今まで私がお前に教えたこと、これからきっと役に立つ…何とか間に合ったな」
 ふと呟いたマッセの横顔は、ドルワには寂しげに見えた。

   ×   ×   ×

「何とか間に合う、ってこれから何なんだ?きっと役に立つって……」

 静かに横たわる女をながめながら、ドルワはつい言葉に出してしまう。泉の湧く音や葉擦れの音も、より静寂さを際だたせる。口から発した言葉が部屋にむなしく響き、そして消えていく。それでも黙ってここにいるよりはいい。
(それにしても……『門』っていうのは固いものじゃなかったんだな。この人もあんなに高いところから落ちても死なないなんて……)
 しずくは飛び散り、女を気に掛けているうちにやがて蒸発するように消えてしまった。あれは一体何だったのか?

「時空の狭間を越えるために、しずくは人の体を守り、弾けて消える——」

 父は家に帰る道すがら、初めて『番人』に関わる話をしてくれた。空の門のこと、しずくによって異世界からやって来る人々のこと。彼らは王都では『しずくびと』と呼ばれ、政治や学問など様々な分野で重用され、王都の繁栄に一役買っている……当然ドルワは初めて聞く話であり、混乱した。そんなどこから来たのかわからない人間が同じ世界に暮らしているなどありえない、そう一笑に付していた筈だった。そう今までは。しかし彼は『しずく』を見てしまった。そしてその中にいた『女』も。

(父さんは勉強は追々で良い、なんて言っていたけど……)

 目の前の女はいまだ眠っている。もし目覚めたならば、いやおうなしに面倒を見たり『番人』の仕事に関わることも色々やらされるに違いない。
「はぁ……」
 そう思うと何故かため息が出る。ドルワはいつ何処で産まれたのかわからない。知っている人間もいなかった。ただ、十年前に王都の施設に預けられたときは、まだ乳飲み子だったということは確かなので、王都の人別登記帳では取りあえず「十歳」ということにされている。生来の快活さ故、どんな人間とも仲良くなれるというのが彼の武器であったが、綺麗な女性に対しては最近いささか往生するようになった。以前は他の人と同様に口を聞いたり笑わせたりすることも出来たはずなのに、最近はちょっと苦手気味のようだった。
(やっぱり山にこもってるからなあ……)
 無口な父親マッセを見ていると、山での生活が世間との関わりを不慣れにしていることは明らかだ、とドルワは思った。しかし、いずれはマッセの後を継いで『番人』になるのならば、それも良いかもしれないとも思い始めていた。目の前のしずくびとの女も美しいが、先ほどの時空のしずくの美しさは、『番人』という仕事を魅力あるものと思わせるには充分だった。

「時の、しずくか……」

 思わずつぶやくドルワの言葉が静寂の中に響いた。そして──

「……し……ず……く?」

 不意に応えるか細い声。ドルワは驚きのあまり動けなくなった。その視線の先には、いつの間にか目覚めた女の顔があった。きょとんとした瞳にすぼめた唇、小首をかしげたその姿は、可愛らしくも美しかった。

   ×   ×   ×

「父さん! 起きたよ!」
 ドルワの声にまもなくマッセはやって来た。いつもの作業着ではない、黒い服…ドルワも初めて見るその服は、所々に金属の装飾が施されている。
「父さん……それ?」
「これは『番人』の正装だ」
 マッセは女の前に正座をすると、深くお辞儀をした。
「貴女が来ることはわかっていました。『王』よりいただいた『知らせ』によって」
「知ら……せ?」
 女は相変わらずきょとんとしている。何が何だかわかっていないような呆けた顔であったが、それがむしろ無防備な無邪気を感じさせる。あきらかに年下であるドルワから見ても、可愛いと思わせるものであった。それにしても、とドルワは思った。
「そのうち思い出すでしょう。貴女の名前、貴女の目的。何のために時空を越えてこの地にやって来たのかを──」
「じ……く……う……?」
 女は何を言われてもわからない、とばかりに苦笑いを浮かべた。相変わらず手にはしっかり棒状の金属を握りしめている。マッセはドルワに向き直ると、静かに言った。
「引き続き、お前はこの人の世話をしなさい。くれぐれもあれこれ話しかけないこと。この人は今、混乱している」
 マッセは女に一礼をすると退席した。再び女とドルワは二人きりになった。
「……」
 静寂がドルワに重くのしかかる。
(そういえば、この人、僕らと同じ言葉をしゃべるんだ)
 初めて声を掛けられたとき、ひたすら驚いただけだったが、先ほどの父とのやり取りを見て、女の使う言葉は普通に慣れ親しんだそれであることは明白だった。
(向こうの世界でも同じ言葉なんだな)
 ドルワは女にあれこれ聞きたい欲求にかられたが、父の言葉思い出すとただひたすらに耐えた。気まずい中で窓の外の景色をながめつつも、何となく視線の端にいる女に気をやりつつ、ドルワは取りあえず何をすべきか考えた。
(あ、そうだ……)
 うっかりしていた。女はしずくに包まれて落ちて、地面に裸で倒れていたのだ。
「あの……」
「……はい?」
「体…洗った方がいいですよね。今からお湯を沸かします」
 何やら女は考えていたが、穏やかなほほえみを浮かべ、つぶやいた。
「水の……音がしますね」
「あ、ああ。そばに泉があります」
「どうやらここは寒くないようですから、そちらへ案内して下さい」

   ×   ×   ×

(違う! 断じて違う!)
 邪な気持ちからあの様なことを言ったのでは無い、とドルワは自分に言い聞かせていた。家の納戸の木箱には大小の貫頭衣状の衣服が数着しまわれている。これらは来客用だ、と父は言っていたが、どうやらこういうときのためのものなのだとドルワは納得した。
(よし、これでいいか)
 適当な大きさの服を取り出し、体を拭く大きな布と共に籠に入れる。その時、背後の部屋の戸が開き、マッセが姿を現した。
「父さん、寝ていなかったの?」
「ああ。今回の件の報告を書面にしないと行けないからな」
「明日でいいじゃないですか」
「色々準備をしなければならん。それに…」
「それに?」
 マッセは顔をしかめると声を潜めた。
「あの人の道具に刻まれている紋様、どこかで見たことがある」
「紋様?」
「気がつかなかったのか?」
「何か見えたような気がしたのですが…すみません」
 恥ずかしそうにドルワは頬をかいた。
「まあいい。もし、あの人が腹を空かせていたら鍋に粥が出来ている。温め直して出してあげなさい」
 父は外へ出ていくと、裏の林の中へ消えていった。ドルワも家を出ると反対方向の泉へと歩を進める。
(父さんと僕は、やっぱり見るところが違うんだなあ)
 年も若く経験も無いのはわかっているが、どうにも自分は気が利かない、とドルワは思った。
(結局、あの女の人の裸を見てポーッとしてるだけじゃないか)
 最初は草原で目の当たりに。小屋の寝所では毛布を掛けていたとはいえ、首筋や肩口の白さに見とれていたのは確かであった。
(何だかなぁ。いやらしいぞ、ドルワ)
 泉に至る坂道を下りていくと、湧き出す水音に混じってパシャ…パシャという音が聞こえてくる。ドルワの胸は高鳴った。
(あの人の音だ…)
 そう思うと足取りはゆっくりになり、息を殺す。知らず知らずのうちに物音を立てまいとしていることに気づき、ドルワは苦笑した。茂みを抜けると泉のさざ波が目に入った。星の光を受け、波紋がいくつも広がっては消える様が輝いている。その中に女は、いた。
「あ……」
 ドルワは絶句した。女はゆっくりと泳いでいた。水面からときおり見える白い曲線がぼんやり光る。草原で倒れていた姿も美しかったが、泳ぐ姿は更にも増して美しかった。
「えっと、着替え…持ってきました」
 ようやく声を振り絞ってドルワは叫んだ。
(声、裏返っちゃったよ……)
 恥ずかしさに再び立ち尽くしているドルワに、女は微笑みながら手を振った。

   ×   ×   ×

 女が体を拭いている間、ドルワはずっと背中を向けて待っていた。
「服の着方、わかりますか?」 
 今度は声が裏返らないよう、注意深くドルワは尋ねた。
「何となく……」
 女はそう答えると服を着始めた。衣擦れの音がドルワを更にドキドキさせる。目と鼻の先の距離で女性が服を身につけている。しかもその人は裸なのだ。ドルワにとって生まれて初めて直面する事態だった。頭がぼおっとして顔が熱い。ドルワはひたすら地面を凝視するしかなかった。
「……おまたせしました」
 どのくらい待ったのかわからない。ひょっとしたらほんの少しの間だったのかもしれない。ためらいながらも振り向いたドルワの目に入ったの意外な着こなしをしていた女の姿であった。裾はたくし上げて帯に挟み、袖口はまくり上げている。本来は寝間着として使われていた貫頭衣は、女の着こなしのせいで何だか格好良く見えた。
「おかしい……ですか?」
「いいえ。素敵です」
 こういう着方が出来るんだな、とドルワは素直に感心した。これなら服が邪魔にならずに手足を動かすことが出来る。その分あらわになった太ももや肩、二の腕が白くまぶしい。
「この服の着方は誰に教わったんですか?」
「ん? 何となく。こんな感じかなって」
例の金属棒は飾りのつもりなのか、帯に斜め差しにしていた。
(このしるしか……)
 マッセが言っていた紋様が今度ははっきりと見える。星に何か帯状のラインがまとわりつくような…今までに見たことのない紋様だった。
「さあ、戻りましょう。お粥が作ってありますから」
 ドルワと女は家に戻るべく夜道を歩いた。夜明けまでにはもう少し時間がある。星の光が木々の葉をわずかに照らすだけであったが、日頃歩き慣れたドルワには充分すぎる明るさだった。
(それにしても、この人は……すごい)
 驚いたことに、女もまた明かりもなしに山道を易々と歩いている。
(行きの道だと気がつかなかったけど……)
 こうして二人で歩いていると、足取りの確かさといい、女は明らかに身体能力が優れていることがわかる。上り道も苦にせず、下り道に足を取られることもない。楽しげに女は先行すると、時には小走りに、時にはきょろきょろと辺りを見回す。木の幹に留まる夜鳥を見つけると目を輝かせてじっと見つめていた。
「いいところだな、ここは……」
 女はつぶやいた。水浴びをしたせいか、目覚めた当初に比べ表情がはっきりとした意志を感じさせる。聡明そうな微笑みを浮かべ、彼女は振り向いた。
「そういえば、あなたの名前、聞いていなかったわね」
「あ…すみません。僕はマッセの息子、ドルワです」
「ドルワ君か。よろしくね。私は……」
 言いかけて女は絶句した。
「あれ?」
「どうしました?」
「私…誰だっけ?」
 女は記憶の喪失にショックを受けたようだった。棒立ちになり、口を軽く開けて必死に思い出そうとしている。あわててドルワが声を掛ける。
「ああ、落ちてきたばかりだからしょうが無いですよ。とにかく家に戻りましょう」
「うん……」
 二人は並んで再び歩き出した。先ほどの明るい表情とは打って変わり、女はすっかりしょげかえっている。とがらせた口が可愛い。
(表情がコロコロ変わる人だなぁ)
 女のそんな様子を横目にドルワは思った。
(このまま、もう少し一緒に……)
 一緒にこうして歩いていたい、そんな思いがふと頭をよぎったドルワだったが、まもなく家の明かりが見えてくる。デートは終わりだ。

 その時、風が鳴った。

「?!」
 風に紛れて、遠くから近づく足音がドルワの耳に飛び込む。家の向こう、奧の森からその音は近づいてくる。木々の間を抜け、茂みを越える。ドルワは女の前に立ち、身構えた。武器はないが、足下の小石がつぶてになる。右手に一つ左手に二つ、手ごろな石を握って近づく足音に備えた。
(誰だ?ケモノじゃない、人の足音!)
 緊張で胸が高鳴る。しかし──
「ドルワ、私だ!」
「父さん?!」
 ドルワは父を見るなり絶句した。
 番人の正装はところどころ破れ、マッセは傷を負っていた。しかし、頭から血を流しながらもその瞳は闘志に燃えている。普段の物静かなマッセからは想像できない姿であった。
「お前はこの人を連れて逃げろ!これを持って行け!」
 マッセは小さな箱をドルワに手渡した。
「中を見れば…わかる!」
 そう言うとマッセは振り返り、構えた。その先から近づく音が一つ、二つ、三つ……五つの足音が絡み合い、静かな怒濤となって迫る。
「行けッ!」
 マッセはドルワを突き飛ばすように押すと、何かを地面に叩きつけた。閃光が輝く。遠くで「ぐうっ」とうめく声が聞こえた。
「走れっ!」
 マッセが叫ぶと三人は道を外れ、一気に斜面を駆け下りた。女は取り乱すわけでもなく、息も乱さずに二人についてくる。走りながら何かを考えているようにも見えた。
(この人、一体誰なんだろう?)
 不意に小さな炸裂音がした。
「あっ」
 瞬間、かたわらの木に何かが当たった。大きな穴が開き、木はどうっと倒れる。
「走れ!止まると狙い撃ちされるぞ!」
 ドルワはとにかく走った。炸裂音は何度も鳴り、その度に岩は砕け、地面はめくり上がり、木はへし折れる。三人は追い詰められ、草原に出た。
「しまった!」
 マッセがくやしそうにつぶやく。そこはしずくの落ちてきた、例の草原だった。
「逃げたつもりが、追い詰められたか」
 もうすぐ夜が明ける。滲むような朝日の予兆がうっすらと暗闇を和らげ、近づく足音を一つ、二つ…その姿を明らかなものにしていった。黒装束に身を包み、顔には奇怪な面をつけている。五人は各々大小の筒を抱え、或いは手に持ち、三人の前にたちはだかった。
「ミヅキ、お前は死ななければならない」
 五人の中央に立つ長身の男が言った。
(ミヅキ、って?)
 ドルワは思わず女を振り返った。女は唖然として五人を見つめている。
「ふん。記憶…いまだ戻らずか。その方が貴様にとって幸せかもしれん」
 男達は筒を構える。その先端はミヅキと呼んだ女に向けられた。
「無念も未練も無いまま…死ね」
 一斉に筒の先から閃光が走る。思わずドルワはぎゅっと目をつぶった。何かが跳ね返る音が幾つも響く。目を開くと父がドルワと女の前に立っていた。体を前に乗り出し、腕を十時に組んで。
「ぐうう……」
 マッセは呻くと口から吐血した。
「ふふん、身を挺して女を守ったか。しかし、いつまで保つかな?」
 再び閃光が走る。マッセの目前の空間が歪み、金属音が響く。
「ぐあっ」
 マッセの肩口から鮮血が吹き出す。
「全てを跳ね返すことは出来んぞ。光の武器と違い、実弾は歪みを突き抜けるのだ」
「くっ」
 十字を解くと、マッセは拳を突き出す。
「せあっ!!」
 腕輪が輝き、目前の敵の前の空間が歪む。えぐれる地面。五人は一斉に飛び退くが、そのうちの一人にマッセは肉薄する。
「くおっ!」
 懐に飛び込むと渾身の力で肘を打つ。
「がっ!」
 打撃の中心がぐにゃりと歪み、敵は短く断末魔の叫びを上げて倒れた。
「そこまでだ」
 敵はマッセを押し包む。三人がマッセの動きを止めると残る一人は暗器を取り出し、その胴を貫く。
「ぐあああっ!」
「父さん!」
「出るなッ!」
 するどい声と共にドルワは肩をつかまれ、後ろへ引き戻された。
(すごい力?!)
 呆然とするドルワと入れ替わりに女が走る。低い体勢で、地を這うように。男達は不意を突かれ、筒を構える動作が遅れた。女は更に体勢を低くすると前方に跳んだ。

 瞬間光がきらめき、鮮血が吹き出す。

 女がゆらりと立ち上がり、刀を右手横一文字に構える。帯に挟んでいた金属棒はその先端より鋭い刃を突き出し、敵の血潮をしたたらせる。遅れて敵が二人、どうっと倒れた。残る二人は距離を取り、筒を構えて牽制する。
「目覚めたか、ミヅキよ」
「その声、ロウキだな?」
 長身の男に問いかける女の声は、今までの優しげなものではなく、厳しく鋭い声音であった。その隙にドルワは倒れた父の元へ走る。
「父さん……」
「ド……ル……ワ……」
 息も絶え絶えなマッセは必死に声を振り絞る。
「あの人と……王都に行け……」
「父さん!」
 
 女は長身の男に再び問いかける。
「あの人は?あの人は何処?!」
「教えん。教えんよミヅキ」
 男達は女を挟み撃ちにしようと動くが女は再び低く跳んだ。
「バカめ!」
 敵の持った筒が光り、女の着地を狙って弾丸が飛ぶ。しかし女はその跳躍を短く押さえ、着弾よりも手前で着地して跳ぶ。
「何?!」
「気をつけろ、そっちだ!」
 長身の男が叫ぶが、もう一人の男はその胴を左下から右上に切り上げられる。反撃の間もないままに男は絶命し、倒れた。女は止まる間もなく横に跳ぶ。長身の男は筒を構えたが、あえて撃たずに距離を取る。
「ロウキ、もはや一人だ」
「見ればわかる」
「貴様達、ここで何をしようとしている?」
「お前こそ……何しにきた?」
「忘れたッ!」
 女は低く跳ぶ。ロウキと呼ばれた男は筒を構え弾を込める。女は更に横へ跳んだ。
「お見通しだ!」
 ロウキは弾丸を発射した。しかし、それはこれまでのものと違い、筒より出でると細かな礫が放射状に飛んだ。
「ふん」
 其よりも素早く女は薙いだ。虚空は歪み、場を作ると礫はことごとく女の手前で弾かれ、あるいは逸れていった。
「散弾など、甘いッ!」
 言うよりも早く、女は飛び込むとロウキの胴を切り上げた。しかし踏み込んだ距離がわずかに浅い。
「ちッ」
 かろうじてかわしたロウキはそのまま森の闇に消えた。

「父さん……」
「いいか、ドルワ。王都へ行け…」
 瀕死の中、マッセは消え入りそうな声でそう言った。
「あなたの……荷物も……先に来ております」
 ミヅキに向かってマッセは微笑む。
「祠に……祠を見て下さい」
「ありがとう」
 ミヅキは悲しそうな顔でマッセをのぞき込んだ。その表情は、水浴びの時に見せた優しい女性のそれであった。
「気になさらず。これも番人の宿命……ドルワ、後はその箱を…」
 指さした手がだらりと下がり、マッセは逝った。
「父さん! お父さん!」
 ドルワは父の亡骸を抱きしめ、泣いた。
 ミヅキもまた、泣いていた。
 暗から明へ。夜明けの光が空を満たし、『はじまり』を告げた──

読んで下さってありがとうございます。現在オリジナル新作の脚本をちょうど書いている最中なのでまた何か記事をアップするかもしれません。よろしく!(サポートも)