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段々とわからなくなる他人のこと

他人の痛みにいつからか鈍感になってゆく。

自分も知っていたらしい痛みなのに、まるで人生で触れたことのない痛みのように感じられて、相手は何やら傷を見せびらかしては痛みを訴えているが、何を言っているのかさっぱりわからずまるで宇宙人との会話。

それでもなんちゃらハラスメントだとか毒親とか言われたら困るから、とりあえず「それは大変だね」と伝え、それ以降その件については触れないようにした。


僕はよくK -POPアイドルを見て全員顔が同じに見える。
少女時代が日本にやってきた時、本当に全員同じに見えた。
大学生の頃は頻繁に「TWICE誰推し?」と聞かれたがモモ以外全員同じ顔に見えていたので「やっぱりモモっしょ」と答えていた。
今でもあまりわかっていない。

先日赤ちゃんの発達に関する本を読んでいると、生後間もない時期は日本人だけではなく韓国人も、黒人も白人も、さらにいうとオラウータンなど動物の顔の違いも全て見分けることができていたらしい。

それがだんだんと「日常生活にオラウータンの顔の識別いらないじゃん」
「日本人の顔だけわかれば別に困らないなぁ」
と気づき始めると、日本人の顔は識別できても他の国の人たちの顔のパーツに対する認識がざっくりしだすらしい。

これは見た目だけではなく、音も同じで、幼い頃はLとRの発音が全然違うものに聞こえるのに
「いや日本語では両方”ら行”だしこの差どっちでもいいな」
と気付くと音の違いを識別する能力を捨てていくらしい。

捨てていくことは悪いことではなく、脳のキャパは限られているのでいらないコストを削る作業は重要だ。

両親が別の言語を話すためバイリンガルになる赤ちゃんは、2つの言語を話せる代わりに話し出す時期が他の赤ちゃんよりも遅くなると言われている。
限られた脳のキャパで通常より多くの情報を処理しないといけないので当然とも思える。

人生に必要のない認知能力は”余分なコスト”と見做されその力はいつの間にか捨てられる。

この赤ちゃんの発達について学んでいる時、大人の、他人の感情に対しての認知でも同じ原理が働いているのではと感じた。

なんだか大人は自分には大事じゃないと判断した感情の機微に鈍すぎる。
自分が感じる心の変化に対してはずいぶんと大袈裟なのに。

SNSで平気でヘイトや殺害予告、誹謗中傷を書き込む人たちは、目の前にその人がいるときに同じことを伝える時には感じていたはずの緊張感や言いにくさ、相手を傷つけているという感覚を知っていたはずだ。

「画面上で書くだけならそんなに」と、気付かぬ間にその感情を認知する能力を捨ててしまっているのではないか。

中学生の頃クラスの中は、子供にとって世界の全てで、そこで人に嫌われるとか、恥をかくとか、勉強と部活と人間関係、様々なことが同時に起きることの大変さや苦しさはかなりのものだったはずだ。

「学校行って遊んでいるだけだろ、こっちは働いているんだぞ」

知っていたはずのあの痛みも「もう昔のことで自分が認知する必要のあるものではない。」と捨ててしまい、さもたいしたことないようにあしらってしまうのが大人になるということだと言うのか。

中学生の主人公が学校生活の中でどんな苦しさや葛藤、心の痛みを抱きながら生活しているのかが描かれた小説が直木賞を受賞し「話題だし読んでみるか」と本を開く。

急に息子のことが心配になって、親に言えない悩みを抱えてないだろうか、いじめられてないだろうか、体の変化に悩みや戸惑いを感じていないだろうかと心が再び動き出す。

こうやっていろんな心の動きを物語の力を借りながら大切に取っておくことはできないのだろうか。


これだけ情報が溢れる中で、自分に関係なさそうな事柄に対する認知能力を切り捨てて行くことは重要かもしれない。
ましてやコスパやタイパといった言葉が蔓延る現代では必然的なのかもしれない。

しかし、気付かぬうちに「私には関係ない」と切り捨ててしまった認知能力は、自分は感じない痛みでも、誰かの傷に寄り添うために必要な認知能力でもあるのだ。

たまに、全く興味のない記事を読んでみたり、子供が図書館から借りてきた本をこっそり読んでみたり、なんちゃら賞を取ったらしい興味のない小説を読んでみる。

そうやって、今の自分と少しだけ遠い場所の話を聞くだけで、もう忘れた感情を認知する力がまたカラダに帰ってくるかもしれない。

新しい認知能力だって手に入れられるかもしれない。

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