見出し画像

100回の舌打ち

家から出ようと部屋の扉を開ける。
ちょうど隣の部屋に来ていたフードデリバリーの配達員がうちの扉の前を通ったらしく、扉が彼の足にぶつかったようで、「チッ」と舌打ちをされた。

エレベーターに乗って一階に降りる。
出ようとしたら乗ってくる人がいて、彼女はスマホを触っているから僕が乗っていることに気づかず、ぶつかりそうになる。目線を上げて少し驚い顔をした彼女は、すれ違いざまに「チッ」と舌打ちをした。

駅に向かって道を歩いていると、前から歩いてくる人がいた。
避けようとすると相手も同じ方向に避けて、右、左、右、さらに右、とまるで社交ダンスのように動く。僕はおかしくなって笑いを堪えたが相手は「チッ」と舌打ちをして去っていった。

続け様に3人に舌打ちをされて心が曇った。
こうも簡単に見知らぬ人間に対して敵意や嫌悪を一方的に投げつけることができる舌打ちというのはなんとも反平和的な人間の機能だなと感じた。

またしても前方から人が来る。
「さっきみたいにならないように、、!」と先んじて右側にずれたら、ちょうど後ろから自転車が来ていて、急に歩く位置を変えた僕に腹が立ったのか通り過ぎる際に舌打ちを聞かせていった。

コンビニに入る。
肉まんを買うと最後の一個だったらしく、欲しかったのか後ろに並んでいたカップルの男が僕に舌打ちをした。

エスカレーターに乗る。
右側に少し荷物がはみ出していたのか、歩いて登って行く人が僕のバッグにぶつかった。その人はわざわざ振り向いて、僕の顔を見ながら「チッ」と舌打ちをした。

これだけ短時間の間に何度も舌打ちをされると、なんだかこの世が随分と陰湿なもので、どいつもこいつもクソみたいな人間ばかりと共生をしている気分になってきた。

ホームで電車を待っているとそこが邪魔だったのか舌打ちをされ、
車内で席に座るとその女も座りたかったのか舌打ちされ、
気まずくて次の駅で扉横の角に移動すると今度はそこに立ちたかった人に「チッ」と舌打ちされた。

存在が邪魔だから舌打ちをされているような気になる。
彼らの世界に僕の存在は不都合だから舌打ちをされているのではないか。
僕は彼らの世界から排除されるべき存在なのか。

こういう日はなぜか嫌なことが続く。

歩くのが遅かったのか後ろの人に舌打ちされ、
本屋で通路を塞いでしまっていたのか舌打ちされ、
「決済方法は?」と聞かれ、僕の声が小さかったのか「チッ」と舌打ちをされた。

こいつら、舌打ちで不都合なものを排除したつもりか。
でも社会にとって不都合な存在はどちらだろう。
お前らじゃないのか。
お前らみたいに自分勝手に行動や感情を投げつける奴の方が社会にとって邪魔じゃないのか?

ランチで注文を少し悩んでいたら店員に舌打ちされ、
箸を落としてしまったのでもう一つお願いしたら舌打ちされ、
お会計で小銭を探していたら後ろの客に「チッ」と舌打ちをされた。

それでも自分が舌打ちをすることは避けた。
自分はなんだか舌打ちは、ずるいことだと思った。
相手に自分の感情だけ勝手にぶつけて、受け取った側の感情には一切の責任を放棄する、ずるいことだと。

カフェで注文方法がわからずに手こずっていると後ろの客に舌打ちされ、
受け取り場所を知らずにレジ前で待っていると店員に舌打ちされ、
コーヒーを受け取る際にお姉さんに少し指が触れてしまい「チッ」と舌打ちをされた。

でも自分だけ我慢するのは、不平等だと思った。
普段街中でゴミを拾ったりするけど、それもなんだか不平等だと思っていた。
なんで自分勝手に生きて、ゴミを捨てて、舌打ちを去って行くような人間が気持ちよく生きれらて、僕のような人間が不快な思いをしないといけないんだ。

公衆トイレの個室に入ると同じタイミングで来た男性に舌打ちされ、
便をすませ個室を出る時には待っていた奴に舌打ちされ、
それに気を取られていると子供とぶつかりそうになり今度は保護者に「チッ」と舌打ちをされた。

仏の顔も三度まで。そんな数字はゆうに超えている。
僕にだってプライドがある。自分勝手なクソどもに反撃をする合図をただただ待っていた。

閉店時間の30分前の入店だからか舌打ちされ、
二人席を一人で使用していたからか舌打ちされ、
「レシートください」と言ったら「チッ」と舌打ちをされた。

だから決めた。
もし万が一、今日中に100回したうちをされたら、その時は仕返しをする。
舌打ちをし返すかもしれないし、足を引っ掛けるかもしれない。
弱そうな奴だったら殴ってやるかもしれないし、人混みであれば痴漢をするかもしれない。

青信号が点滅していたので歩みを止めると、後ろにいた人が舌打ちをした。
50回。

キャッチに会釈だけして無視すると、舌打ちをされた。
60回

道で老人に道を尋ねられたが、分からなくて断るとその人は舌打ちをした。
70回

仕返しをしたところで、相手はクズどもだ。
そいつらに多少やり返したところで、今までの蓄積や、今日の分だけで考えたってダメージの負債は僕の方が大きいくらいだ。

Suicaの残高不足でゲートが閉まり、急いで歩いていくおじさんに舌打ちされた。
チャージしようとしたがお札がなくて、切符を買い直していると後ろで待ってる人に舌打ちをされた。
ホームで電車を待つ列に並ぶと、距離が少し近かったのか前にいた女性は少し後ろを振り向きながら「チッ」舌打ちをし、そのまま点字ブロックの位置まで半歩前に進んだ。

その時がちょうど100回だった。
だから僕はその女性を線路に向かって強く押し、そのまま改札の方へ走った。

警察の取り調べに対して理由を聞かれたが、「舌打ちをされたから」としか答えようがなかった。

その発言だけが切り取られ、雑誌で、テレビで、新聞で、”精神異常者による無差別殺人”としてたくさんの罵詈雑言を浴びた。

ネット記事で両親や兄弟の写真が流出し、学生時代の先生や友人などにも記者が押し寄せ、全員が各々に過去の解釈を歪めて、小さい頃からその節はあったと言ったり、そんな子ではなかったと言ったり、十人十色の欠席裁判だった。

一連の報道を見て女性は「こうやって世界に対して恨みを持ってるタイプ怖すぎ。しかも誰でも良いのかよ。こういう奴がいると世界はマジで平和になれないんだなと思う」と書いて”投稿”のボタンを押した。

67番目に犯人に舌打ちをした女性店員だった。
そのことを彼女が知ることは生涯なかった。

その投稿には4つのいいねが押された。




作り話だ。
しかし、これに近いことが現実で起きていると思っている。
犯罪を許容する意図は一切ないが、犯人だけに罪があるのか?
僕は、これは101人で起こした事件ではないのかと考えている。

どんなに何かを憎んだとしても犯罪行為に走ってはいけない。
この犯人もきちんと裁かれるべきである。

しかし、しかしだ。この人間に対する100の舌打ちは、消えるのだろうか、舌打ちをした100人は、被害者ヅラで正義のコメントをSNSに書き込んでいて良いのか。

あなたが100回のうちの1回の舌打ちをしたかもしれない。
その1回がなければあいつは人を殺していなかったかもしれない。

最後の一歩に踏み出してしまったその罪に至る過程を、どうして無視して良いのだろうか。
どうして自分はいつでも加害側とは無関係な立ち位置でいれるのか。
どうして罪に至る1/100に自分を含む可能性を考えないのか。

「事件を未然に防いだ」こんな言葉が出てくるニュースは大袈裟なもので、咄嗟の判断で自分の命を顧みず犯人に近づきナイフを奪ったとかそんな行動が報道される。

でも実は、犯罪を未然に防ぐと言うことは、一回の舌打ちを我慢するようなことではないかと言うことを僕は考えている。

そんな行動の積み重ねで救える命もあるし、
そんな行動の積み重ねで生み出してしまう罪があると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?