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昔は良かったという後悔

無意識のうちに、「昔は良かった」と思ったり、口にしたりすることが増えた。具体的に何に対してそう思ったのかは、いちいち詳細に覚えているわけではないし、よくある闇雲に「今」を嘆いて「昔」を過剰に賛美しているわけでもない。
「昔」と言っても、自分の年齢から考えれば、せいぜい20年前程度の「昔」であって、さらには自分の認識している「世界」が狭かった故の「良さ」を思い起こしているがほとんどのように思う。

時の流れとともに、環境はもちろん変化するし、自分自身も変わっていないようで、ゆっくりと着実に変わっていっている。
温暖化によって地球の気温が上がり続けているように、身長も体重も増え続け、知識とか経験、関わる人間の数、自分という入れ物の中に、普段であれば気にも留めないものが次第に蓄積されていっている。
ただ、蓄積されていっているはずなのに、どうもその実感がわかないのが思い出で、思い出を保存する領域には一定の上限があって、それを超えると過去のものを消去して新しいものを詰め込むといった仕組みになっているように思える。
思い出を思い起こす時、以前であれば鮮明に思い出せていた内容の端々に靄がかかることが増え、曖昧な思い出になってしまっている。
ここで面白いのは、「以前は鮮明に思い出せていた」という思い出はしっかりと蓄積されていることなのだけれど、次第にまた「以前は鮮明に思い出せていた」という思い出もいつしか靄がかかってしまうのかもしれない。
もう一つ面白いことがあって、誰かから、あるいは何かからその思い出のことを聞いたり、見たり、つまり何らかの刺激を受けると、靄が晴れて鮮明なイメージを取り戻すことが多々あることだ。
そうすると、容量の上限を超えた時に思い出は削除されるわけではなくて、圧縮して別のどこかに保存されているだけなのかもしれない。

写真が昔から嫌いだった。
子供の頃、母にカメラを向けると、
「魂が抜かれるから写真は嫌いなの」
とよく口にしていた。
実際にカメラで撮影されると魂が抜かれてしまうのだとしたら、写真や映像でプライベートを発信することが当たり前になった今の世の中では、魂を抜き取られた人間の入れ物がそこかしこに転がっていることだろう。
母がそんなことを言っていたからなのか、自分も幼い頃からカメラを向けられることが好きではなかった。たしかに、子供の頃は母の言葉を真に受けていたのかもしれないけれど、次第に自分の美しくもない容姿を一つの真実として保存されてしまうことを嫌うようになったからだった。
自分が撮られることを嫌うのと同じように、自分以外の誰かや何かを撮影することに関してもあまり好きではなかった。写真や動画で保存しておくことの意味が見出せなかったし、写真や動画を見ることでしか思い出せない思い出なら必要ないと思っていたからだった。つまり、愚かなことに、自分の中の「思い出を保存する領域」は無限だと過信していたのだった。

たかだか30年弱の自分の人生を振り返った時に、あるいは人生を終える間際に振り返るだろう時に、自分の人生のテーマは「後悔」だったと思うくらいには後悔について考えていることが多い。なんなら「後悔」という言葉が好きということまである。人間どう足掻いても先に悔いることはできなくて、必ず後になって悔いるのだ。
自分の人生は後悔の連続で出来上がっていると言っても過言ではないかもしれない。だいたいことが済んでから、うじうじと「あの時こうすれば」なんてことばかり考えている。直近の出来事についてであれば目を瞑れるかもしれないけれど、ひどい時は大昔のことについてまで後悔している時がある。後悔を体現している人生だ。

写真や動画を残さなかったのも後悔の一つだ。自分が撮影されるものに関しては、「残しておけば良かった」なんてことは思わないけれど、誰かとの思い出に関しては残しておくべきだったと、今になってひどく後悔している。

自分が歳をとるのと同じように、周りの誰かも歳をとっていて、いずれお別れせざるを得ない時がやってくる。そして、さらに悲しいことにその誰かとの思い出も曖昧なものになってしまうものがたくさんある。
人でも動物でも、思い出の中ではずっと生きていられる。せっかく思い出の中で生きてもらうのなら、出来るだけ鮮明で、色んな表情を見れた方が良いに決まっている。

遺骨のそばに飾っている写真は、ずっと同じものだし、スマホの中の写真は年老いてからのものがほとんどだし、写真が勝手に増えることもない。ただ、いつもそれを眺めて、僕の記憶の中を走り回ってもらっている。僕が走り出すと、僕より前を走ってリードを引っ張る力強さも自然と思い出される。当人からしたら、そろそろ休ませてくれと思っているかもしれないから、穏やかに眠る姿もたまには思い出している。

「昔は良かった」
夏でも気温は今より低くて、夕方には涼しさが感じられた。
心も身体も身軽で、どこかに出かけることが億劫じゃなかった。
やりたいことがたくさんあった。
君も若くて元気で、一緒にたくさんのことができた。



ふとスマホの中の整理をしていると、一つの音声ファイルが見つかった。
鳴き声とご飯を食べている時の音だった。
君の記憶がまたひとつ鮮明になった。

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