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コロナに思う、与える人と奪う人

「与える人になりなさい。奪う人は欲しがった分だけ欲しい物が逃げていくから。」

私には敬愛している人生のメンターがいる。

その師匠が、21歳の私にくれた考え方だ。

普段から自分の1部になっている言葉だけど、コロナになってよりこの言葉の深みを感じるようになった。

その話を書こうと思う。

「社会はgive&takeだ」の解釈

「おまえの「それ」はおかしいよ。takeを求めないgiveなんて資本主義社会において愚行だし偽善にしか見えない。気持ち悪い。」

21歳当時、私の性質を当時の大学教授に否定された言葉。

今思えば「まぁ言わんとしてることはわかるかな。共感はしないけどね」と整理できる程度の言葉だけど、当時のまだまだ若かった私は傷ついた。

「困っている人がいたら相談に乗る」

私にとって「それ」は当たり前のことで、どうも小さなころから「共感覚」が強いのか相手自身も言葉になっていない感情を汲み取る性質があったので、相談されることが非常に多かった。(他方で感情に敏感すぎてすぐに体調を崩す子供だった)

話をきいて、自分ごととして考えて、提案をして、解決できればみんな喜んでくれる。(相談に乗れる相手は自分が親愛の情を抱ける人に限るけど)

それは私にとってとてもうれしくて、「自分がここにいてもいい」と思える瞬間でもあった。

だから、自分のアイデンティティごと否定された気がして、どうやって自分を立て直していいのかわからなかった。

そんな時に、師匠に出会い、師匠に相談らしい相談をはじめてしたのがこのことだった。

「takeを求めないgiveはいけないことなんでしょうか?」

そう聞いた私に師匠は

「水桶と同じだよ。take、つまり自分のほうに水を寄せようとすると水は逃げる。でも、水を向こうへ与えようとすると水は集まる。即物的には与えていてなにも得ていないようにみえるけど、与えることで得るもののほうが人生は多い。だからお前はそのままでいんだよ。」

と、なんでもないことのように、でも真面目に答えてくれた。師匠の誠実さと聡明さ、そしてその言葉に本当に救われた。

与える人なのか奪う人なのか

師匠は私の仕事の元上司で、ドライというかドSなので独立後はどんなに嘆願しても年に数回しか会ってくれない。

ある年末に、そんな貴重な機会のうちの1回がやってきた。

「やばい、テンションあがる!」とそわそわわくわくしながら師匠がいる関西屈指のおされタウン、神戸へ。推しのライブに行くファン状態。

会った瞬間、嬉しくて泣きそうになる私のテンションMAXな心理状態なんて師匠は知ってるはずだが、「ああ、どうも」と相変わらずの塩対応。

美味しいお酒と料理をいただきながら、楽しく時間がすぎていい感じに酔っ払ってきたころ、真面目に「人」の話になった。

「人の採用って難しいですね・・・人1人で会社の文化が壊れてしまうことって本当にある。かといってそんなこと言ってたら採れないし・・・。いい人だからって仕事ができるわけでもないし・・・。基準が難しい。」

私は当時、採用と人のことで悩んでいたので思わず相談すると、師匠に

「なんで組織には不平不満しか言わない人や会社にしてもらって当たり前と思ってる人がでてくるとおもう?」

と「明日も寒いやろなぁ」みたいなテンションでさらっと聞かれた。

師匠はいつもこうだ。意表を突くというか、「そんなこといつも当然考えてるよね?」と言わんばかりになんでもないことのように問をくれる。

「はい、来ましたー」

と内心冷や汗もので脳みそ総動員してひねり出し、

「どういう人を良しとするか?を明確にした企業文化がないから?」

と答えたが、師匠は「ははっ」と一蹴。

「違うよ。奪う人を採用するからだよ。」

?????(✽ ゚д゚ ✽)

「(・・・こいつほんまポンコツやな・・・)会社に何をしてもらえるのか?と考える人と自分は会社になにをもって貢献できるのか?を考える人がいたら後者しか採るべきでない。そうしないと、会社はどんどん弱体化していくだけだし、個人も結局は成長しないから人生の選択肢が狭まる。だから、「与える思考」をもっている人を採用するか、そういう思考に育てるしかないね。」

「でもそんな与える思考持ってる人ってそうそういます?」

「いないね。特に中途採用は。だから会社規模を大きくするのは難しい。どうしても採用困難なときは基準が下がってしまって奪う人も採らざるをえないから。」

「えーじゃあ、与える人だけの少人数が会社組織では現実的ってこと?」

「そうなるね。」

というような会話をした。

師匠は経営者歴がながく、私は経営者というのもおこがましいレベル、というか経営者のインターン状態。

人間的にも師匠は仙人みたいな人で、俗世まみれのぽんこつな私とはやっぱり次元が違う。

与える人とのご縁を得るには?

会社規模云々の話はひとまず置いておいて、「与える人」にはどうやって出逢えばいいのか?どうすれば一緒に働けるのか?自分なりにその後考えた。

・会社が社会に価値ある事業を推進していること

・ビジョナリーな会社であること

・経営者、既存のメンバーが「与える人」であること

は最低限、必要な条件かもしれないと思っている。

「与える思考の人」は利他的で、共感力がある可能性が高いのでその人達が「これはぜひやり遂げたい」「この課題解決は重要だ」と会社の事業のミッションやビジョンに共感してもらえないと出会っても興味を持ってもらうことが難しいと思う。

たくさんの人に共感されなくてもいい。自分たちが「これは絶対にやりとげて社会をよくしたい」と信じている会社をやっている理由を伝えた時に、「ぜひ一緒にその課題を解決したい!」「この人達と働きたい!」と共感してもらえることが重要だと思う。

社会的に価値ある事業とはなにか?

何が「価値」かなんて人によって違うし正解もない。

ただ、それが自分たちの私利私欲以上に「絶対に解決したい」と思えることなのか?

個人の購買欲や名誉欲なんてちっぽけに思えるほどの荒唐無稽である意味強欲にも思える社会的に見ても難しい課題を解決することなのかどうかが重要だとおもっている。

私の場合は自分の会社の理念にもなっているけど、自分の人生の時間を使って、仕事を通して「敬う心をひろげ、次世代につなぐ」ことを目的に事業を行っている。

ともすれば不要論さえ囁かれている「供養」の領域でそれをしていきたいと思っている。

自己責任社会、孤立社会といわれている現代社会特に先進国で、最大の課題は「精神的な孤独」。

孤独の解消。いろんなアプローチがあっていいし、あるべきだと思っている。その中で、私の中の琴線にもっとも触れるのが「敬う」という行為。

その最たるものが「先達への感謝」であり、死者に「祈る」という敬う行為だと思っている。

「自分は生きてるんじゃない、生かされている」

その謙虚な気持ちを教えてくれるのは、飢饉や戦争をの超えてくれた先達のたゆまぬ努力や、先祖や死者がつないでくれた人生の先に自分の今がある。

自分が生まれてきたのは決して当たり前じゃない。

自分が安全な環境で選択できる自由を得て生まれてきたのも自分の努力じゃなく今はもういなくなってしまった人たちのおかげ。

先達や死者を想い、祈るだけでそれらを教えられる。

それは、今生きてる人への敬いにもつながる。

それを思い出したり、気付くきっかけになる事業を行っていきたいと思っている。

ビジョナリーな会社とは?

ビジョナリー。わたしにとっては「理念に忠実に、会社を、事業を通して社会をこうしたい」というビジョンがある会社を意味する。

自分たちが掲げている理念はどんな意味があるのか?なぜやるのか?何になるのか?何につながっているのか?に立ち返るためにも必要なのは自分たちが目指そうと思えるビジョン。

そのビジョンに共感してくれる人であれば、仕事をしていくうえで方向性がまったく異なるといったこともないし、事業の推進がメンバーの喜びにもなり、成長にもなっていくという善サイクルにつながる。

私自身、いろんなことがあった社会人生活だったけど、会社のビジョンに共感していたので続けられたという実感がある。

だから難しいことをやろうとする会社であればあるほど、ビジョンは必要だとおもう。


経営者、既存のメンバーが「与える人」であること

福利厚生、有名な社名、短時間高所得、責任ない仕事。

求めようと思えばいくらでも会社には要求できる。

でも、「自分にできることを増やし、会社に貢献することで自分のスキルや市場価値もあがる」ことを理解している人は、結果的に欲しがらない。

というのが私の経験上の見解だ。

私の師匠は何もできない21歳の新卒に「どうなりたいの?」と真剣に聞いてくれた。

そして私のやりたいことと、なりたいことを理解したうえで会社として担ってほしいことと、やりたいことやなりたいことに繋がる経験がつめるよう裁量を与えてくれた。

挑戦する度に自分の能力のなさを突きつけられて、悔しい思いや辛い思いをしたことのほうが多かったけど、いまもそのことに私は感謝している。

そして、そんな師匠はじめ当時の会社のメンバーがみんな「自分が組織に貢献できること」を真剣に考えている人達だったことに衝撃をうけたこともあって私は入社を志願した経緯がある。

目の前の給与のベースアップがされないことに不平不満を言うよりも、自分に多くの裁量が与えられ、挑戦と失敗、そして成功体験の経験を与えられることのほうが長い目で見て価値がある。

お金は使えばなくなるが、試行錯誤して身につけた自分の思考やスキル、経験は血肉ととって自分を支えてくれる。そうすれば、1つの会社に執着しなとくとも、副業やいろんなかたちで収入をることは可能だ。

稼ぐためだけに働くなら、なおさら、自分の市場価値を上げるために会社を利用したおしたほうが私は得策だと思っているが、なぜかそれが伝わりにくい人もいる。

でも、理解してくれる人はみな結果的に「与える人」なのだと思う。

与える人

私自身はまだまだ「与える人」というには至らないが、このコロナ化で私の未熟さからメンバーには苦労ばかりかけているのに、みんな前向きに自分のできることを一生懸命やってくれていて感謝しかない。

「この会社を続けていきたい」そう思ってもらえる組織の責任を任せてもらえる、これは私にとってすごくありがたいこと。

みんなにたくさんのものを与えてもらっている。

コロナでより浮き彫りになったことでもあるけれど、人はつながっているし、どこまでも共創社会の中でしか生きられない。

誰かが生きて、働いてくれてるから自分の今の「あたりまえ」が成り立ってる。

お金があっても医療や福祉に従事する人がいないと看病、介護、教育はうけることができない。電車を運転する人がいなければ電車には乗れないし、水や電気にガス、農作物や水産物もすべて等しくそうだ。

競争に明け暮れ、成長することだけが全てではないのに、自分を見失ったり、誰かと比べて不平不満を抱いてしまう。それは私の中にもあることだし、現代の特に資本主義社会に生きる人間の性、またはカルマなのかもしれない。

でも、もうそれも辞めないと、「人間本位」「自分本位」な人間が増えた結果、世界はどうなったか。

地球は悲鳴をあげているし、物質的な豊かさはこれ以上ないくらい発展しているのに、そこに暮らす人達は「幸せ」を感じにくくなっている。

自殺や引きこもり、いじめに差別は亡くならないし、むしろ増えている。殺人は減っても薬や軽犯罪は悪質になり、静かに人々の平和を蝕む。

1つ1つに今この瞬間も向き合って現場で戦っている人がいる。本当に頭がさがる。でもなくならない。人間の悲しい面と向き合うのは本当に辛いし、受け止める側も壊れてしまう。

そうまでして、成長を目指したはずの日本はこの30年で所得が下がり、気がつけば雇用者1人あたりのGDP生産性では、低生産性グループに入り、国家破綻が囁かれたギリシャにも劣ってる。

研究も企業も急成長、短期での高リターンを求められて長時間労働が当たり前になって労働に「対価」以外の意味を見出しにくい人も少なくない。

時間がかかるもの、意味はあってもお金になりにくいものは切ってすれられる。

なにかが間違っている。ずっとそれを考えてきて私なりにいきついたのが、「根本的な解決は人の思考を価値観を変容させていくしかない」だった。

経済的成長率が一時鈍化したとしても、1人1人が自分の人生を生きて、人と繋がり、意味あると思えることをして、結果的に生産性があがり、持続可能な社会にしていくにはどうしたらいいのか?

まず根本的に変えるべきは人の「価値観」なのだと思う。

そのために、「孤独の解消」は欠かせないと思う。

誰も味方になってくれない、誰も自分の人生に寄り添ってくれない。自分で結果を出さなければ、自分でどうにかして稼がなければ、自分で子供を育てなければ。自分で、自分で。

その強迫観念にも似た「自己責任」の雰囲気が学校生活、社会人、子育て、社会人生活にはたしかに横たわっている。中にはそんなもの気にせずに上手に人と分かち合い、助け合える人もいるし、特定の地域にはまだその風土もある。

でも多くの人口率を占める都会では、自分のこと以外は多くの人はどこか他人顔だ。

人が多い分、余計に強烈に「孤独」を感じるのかもしれない。

その「孤独」が心の余裕をうばい、人を想う心の体力も少なくなって、人と協力したり、助け合ったり、失敗を許したり、挑戦する人を応援したり、人と違うことを認め合ったりするコミィニケーションを阻害する。

経済的成長や株価、給与にいい家や車、大量生産大量消費が人生を、地球を本当に豊かにするならいい。でもそうじゃないから、あらゆる社会課題は深刻化している。

だからこそ、本質的には「人の価値観」を見直す必要があると思う。

自分が生きていることが奇跡だと、誰かがいてくれてるから自分がいるんだと気づくきっかけがもっとたくさんいる。

そのためにも会社員として以前に人として「与える人」が増えていくことが今の社会には必要だと思う。

モノやお金ではなく、心を与えていく人が。

「与える行為」は特別な力ではなく、人間の本性に基本装備されているはずだ。愛すること、慮ること、気遣うこと、祈ること。

それは人間に与えたれた「善」の側面だと思っている。

子供が大人の愛情をたくさんもらって「愛情タンク」を満タンにすると自己肯定感が高く、人にやさしくできるという説もあるように、「孤独」には「善なる心」が必要だと思う。

その連鎖が、この抑圧された空気感を変えていくと私は信じている。

そういった機能を強化、担保してきたのが宗教や信仰だったはずだがいまや世界的な宗教離れで宗教だけにそれを委ねるのも難しい。

だからこそ、民間で何者でもない私でもできることはないのか?

「敬う心」つまり、人が人を想う心をつなげることで「孤独」を解消したい。

敬うこころを感じる機会を増やし、「孤独」を解消していく。

そんな一助になるために、私はこれからも仕事をしていきたい。

あとがき

軽い気持ちで書き始めたら思いのほか長いうえにくどくなって驚愕。

こういう話すると面倒な人になるなぁ私。




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