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スズランを君に


駅前に新しい花屋ができているのを目ざとく見つけると、カナは繋いでいた手を解き、はしゃいで駆けて行った。


五月のはじめ。長かった冬も終わり、すっかり春の陽気だ。さんさんと降り注ぐ日差しは、春を通り越して、夏を感じさせる。
新年度が始まり、バタバタと慌ただしかった仕事もだいぶ落ち着いた、久しぶりの日曜日。ゆっくり家で過ごせると思っていたのに。五歳になったばかりの娘のカナが、朝早くから幼稚園で教わったばかりだという歌を歌い出して、ダラダラと寝ることはかなわなかった。それならばとソファで横になっていると、今度はお腹に乗っかってきて、遊ぼうと騒ぐのだ。
そんな様子を見ていたママが、おかしそうに笑いながら、散歩にでも行ってきたら、と言うもんだから観念せざるを得なかった。


「パパ、はやく! 遅い!」


いち早く花屋の前まで辿り着いたカナが、大声でぼくを呼ぶ。
つい最近、「ママ、ママ」と、たどたどしく言葉を発したかと思っていたら、この有様だ。
子供の成長とは恐ろしいもので、五歳にしてすでに、しっかりした女の子になった。今朝も、なかなか布団から出ることのできないぼくを見て、「全く。いつまで寝てるんだか」と小言を言われる始末である。
最近ますますママに似てきて、その成長が嬉しくもあるが、いつかは「パパとお風呂、一緒に入りたくない」と言われてしまう。そう考えると少し寂しくもあるのだ。


花屋の店先には色鮮やかなカーネーションがたくさん並べられていた。


「きれいだねぇ」
「ほんとだね」


カーネーションに見惚れる横顔は、まだあどけなさが残る。ぼくは、時折見せる娘の子供っぽさを見るたび、もうしばらくは大丈夫かな、と胸を撫で下ろしている。


「母の日の贈り物にいかがですか?」


優しそうな店員さんが奥から出てきて、勧めてくる。
母の日かぁ。そういえば、ママにはあげたことないな。おふくろには何度か花を贈ったことがあったけど。毎年必ず贈っていたわけではないし、ぼくの気分によるところが大きかったのだが、それでも、おふくろはとても喜んでくれたものだ。


「私ママにお花あげる!」


カナが元気よく手を挙げる。
その仕草が可愛らしくて、苦笑しながらもカーネーションの花束を買ってやった。
会計を済ませ、店を出ようとしたとき、目の端に白い花がうつった。
つぼみの一つ一つが真っ白な鈴のような形をしていて、風に吹かれてつぼみが揺れている。
きれいだなあ。
いい年をして、花に見惚れてしまった。


「スズランって言うんですよ」


ぼくのそんな様子を見てか、店員さんが教えてくれた。


「スズラン……」


真っ白なスズランはどこかママに似ていた。


「これも、下さい」




「パパはカーネーションじゃないの?」
「うん、カーネーションはカナがあげな」


花屋を出たあと、再び手を繋いで、家路についた。
花屋の店員さんは、スズランを綺麗に包んだあと、奥さん喜んでくれるといいですね、と微笑んでくれた。
なんだか勢いで買ってしまったが、いざ渡すとなると、少し緊張する。
思い返してみても、結婚する前の交際期間を含め、ママに何か贈り物をした記憶がない。ただでさえ、あまり物を言わないぼくは、贈り物どころか、「好き」と口にしたのも片手で数えられる程しかないかもしれない。
そんなぼくだから、上手く言葉に出せるかは、正直わからない。
まぁでも、こういうのは気持ちだからな。言葉は二の次だ。
自分にそう言い聞かせ、カナが今朝歌っていた歌を一緒に口ずさみながら帰った。


家に着くと、カナは玄関に靴を脱ぎ捨て、「ママー!」と、リビングに一目散に走って行ってしまった。
まったく。
苦笑しながらも、カナが脱いだ靴を揃え、ぼくも娘を追いかける。


「ママ! はい、カーネーション!」
「わぁ、綺麗。ママに?」


駆け込んできた娘を胸に抱きとめると、ママは愛おしそうに花束を受け取った。


「うん! 駅のとこにね、お花屋さんがあったの!」
「あら、そうなの。ありがとう」


カナは、ママに頭を撫でられると、嬉しそうに笑った。


「あのね、パパからもあるんだよ」


おいおい、待ってくれ。心の準備ってものがあるだろうに。
予想もしてなかった娘からのパスに、心臓の脈打つ回数が跳ね上がった。
カナはそんなぼくの心の内が分かるはずもなく、ほら、と目で訴えてくる。ママはママで不思議そうな顔をしている。
仕方ない、男だろ。覚悟を決めろ。


「あ、ああ。そうなんだ」


よし、今だ。言うんだ!


「えっと、あ……あっ、はい、これっ」


言葉を添えるだなんて、とんでもない。目も合わせずに、ママの目の前に花束を突き出すのが、精一杯だった。
ああ、情けない。結婚して七年。ここまで緊張したことがあっただろうか。プロポーズのときでさえ、ここまで緊張はしなかったはずだ。
いることが当たり前になってしまった相手に、たった一言伝えることが、こんなに難しいだなんて。


「えっと、そういうことだから」


恥ずかしくて恥ずかしくて、その場からとりあえず立ち去ろうとした。


「ダメ!」


そのとき、手をぐいっと後ろに引っ張られた。カナが両手でぼくの手を掴み、頰っぺたを膨らませている。


「ダメ! パパ、気持ちは口にしないと伝わらないんだよ!」


カナはそう言うと、腕を組み、わざとらしい溜息をつくと、肩をすくめてみせた。
……はは。いったいどこでそんなの覚えてきたんだ。
娘の話しぶりに驚いたが、それ以上に、まだ小さい子供には似つかわしくないその仕草が、とても可愛らしかった。
救いを求めるようにママを見ると、ママも、くすくすと、おかしそうに笑っていた。ぼくの視線に気づくと、ママは悪戯っぽく笑った。
敵わないな。
ぼくは苦笑すると、娘の頭をぽんぽんと叩いてやった。そして、わざとらしく咳払いをして、ママにちゃんと向き合った。


「それ、スズランって言うんだ」


ママは愛おしそうに花をみつめた。


「きれいね」


ちらっとカナを見ると、早く早く、と目で訴えてきた。


「スズランを見つけたときね」


ママは指でつぼみをなぞる。


「君の顔が浮かんだんだ」


ママが不意を突かれたのか、きょとんとする。スズランをみて、顔が浮かんだんだという、意味の分からないことについてか、それとも、普段は「ママ」と呼ぶのに、突然、「君」と呼んだからか。


「そうなんだ」


それでも、ママは嬉しそうに笑ってくれた。
そしてもうひとつ、普段はなかなか言えないけど、伝えたい言葉。


「いつも、あ——」
「いつも、ありがとうだって!」


焦れったかったのか、我慢できずにカナが叫んだ。


「あのね、パパ帰ってるとき言ってたの。ちゃんと、いつもありがとうって言わなきゃって!」


もう、全部言ってしまった。せっかく覚悟を決めて、もうまさに言う瞬間に、カナに全部持っていかれてしまった。
ぼくが口を「あ」の形にしたまま、呆気にとられていると、ママが声をあげて笑った。おかしくて仕方がないのか、お腹を押さえ、挙句の果てには、笑いすぎて出てきた涙を拭っている。
カナはカナで、ママが笑っている姿がおかしいのか、一緒になって大笑いしている。
ああ、情けない。ほんとうに。
ぼくは、ママが落ち着くのを待って声をかけた。


「あの、つまり」
「わかってるわよ」
「え?」


ママはしゃがんでカナの頭を撫でた。


「だから、わかってますって」


そう言うと、ぼくに悪戯っぽく微笑む。
敵わないなあ。カナにも、ママにも。
ぼくもしゃがんで、カナの頭を撫でる。


「ほんと。カナには敵わないな」


口に出して言ってみる。ちょっと拗ねたような声で。すると、ママは楽しそうに笑った。


「でも、せっかくだから」


ママとちゃんと目を合わせる。


「いつもありがとう」


言えた。あんなに、緊張していたのが嘘のように、あっさりと。でも心からの気持ちだ。
ママは一瞬、驚いた顔をしたが、すぐにニコッと笑い、頭をぺこっと下げた。


「どういたしまして」


ああ、でもやっぱり照れくさい。
ぼくが俯いて、頭をかいていると、カナが肩をトントンと叩く。


「パパ、どういたしまして!」


元気よくそう言うと、ママの真似をして、ぺこっと頭を下げた。
しっかりしているとはいえ、やはりまだ小さい女の子だ。かわいくて、かわいくて、かわいくて仕方がない。
ぼくは笑った。ママも笑った。それにつられてカナも笑った。家族みんなで声を出して笑った。
春先の心地よい風が部屋の中を通り抜け、スズランのつぼみを揺らしていった。

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