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ゼロからはじめる世界史のまとめ⑪ 200年~400年

巨大化した国が分裂する時代

―この時代には広い国がバラバラに分裂していくよ(この時代のまとめ地図)。

やはり広すぎたんですかね、支配する領土が…。
―それもあるね。それに草原地帯の騎馬遊牧民が移動したことも、大きな原因だ。

 ローマ帝国には「フランス人」「ドイツ人」「イギリス人」のご先祖に当たる民族が移動をしてくる。中国にも北のほうから遊牧民が移動し、中国風の国を建てているよ。

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◆200年~400年のアメリカ

―北アメリカの南の方の熱帯エリアでは都市がいくつもできて、農業や貿易の利益をコントロールする支配者が立派な神殿を建設して、富を独占している。
 当時の王様のパワーを物語るように、ヒスイという青い宝石で全身をおおわれた王様のお墓も、ピラミッドの中から見つかっているんだ。


統一された大きな国があったわけではないんですね。
―そうだよ。都市ごとに王様がいて、たがいに争っていたんだ。

 この時期には北の大都市から、南の熱帯エリアに軍隊が進出して、いくつかの都市は乗っ取られたらしい。どうしてわかるかというと、正確な日付とともに支配者の名前が石碑に刻まれているからだ。現在では文字はほとんど解読され詳しい事実が次々に明らかになっているよ。

なんか神秘的で怖いイメージがありますが…
―「ジャングルの謎の文明」っていうイメージが強いよね。情報が少ないからそうなっちゃうんだよね。

南アメリカはどうですか?
―アンデス山脈で広い範囲をまとめる支配者が登場しているよ。海岸付近では巨大な「地上絵」が描かれて、雨乞いの儀式が行われていたらしいね。

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◆200年~400年のオセアニア

―この時期に、南の島の人たちは船に乗って西の島を目指して、少しずつ拡大している。気ままな移動ではなく、計画的な移住であったらしい

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◆200年~400年の中央ユーラシア

―この時期に草原地帯の遊牧民の大移動がはじまる。気候が寒くなり、生活環境が厳しくなったことが原因のようだ。

 草原地帯の遊牧民の活動範囲はスケールが大きい。
 中国の北で活動していた遊牧民グループ(匈奴)が、中国の王様に敗れて西に進んでいき、西のほうでフン人というグループに変化していったのではないかともいわれているが詳細は不明だ。

当時の西の方(ヨーロッパ)にはローマがありますね。
―そうそう。
 当時のローマでは支配の欠陥が目立つようになっていた。だから国境警備隊を置いて国を守ろうにも、ローマ人の兵隊が足りない状況となっていたんだ。
 ローマ人の中にも貧富の差が広がっていたし、首都から遠いところはコントロールがうまくきかなくなっていた。国全体を一人の皇帝が支配することも難しくなっていたんだよ。

じゃあ誰が国境地帯を守ったんですか?
―国境地帯にAとBという遊牧民グループが迫ってきたとする。 この場合、ローマは遊牧民グループBを「ひいき」して、ローマの国内で兵隊として働かないか?と誘った。そして「ライバルのAがローマに入ってこないように国境を守ってくれ」と頼むんだ。


敵を倒すのに敵を利用したというわけですね。
―そうだね。でも、「フン人」という遊牧民グループが東の方からローマ国内に突入すると、もはやコントロール不能となってしまった。 
 「フン人」は別の遊牧民グループを倒すたびに、その軍隊を自分たちの仲間として採用し、「雪だるま」のようにふくれあがってローマに入ってきたんだ。

それは大変ですね。
結局なだれを打つようにローマ国内にいろんな遊牧民が入り込み、各地のローマ人を支配しはじめたんだ。
 彼らのことをまとめて「ゲルマン人」という。軍事的にはローマはとてもかなわないからね。ローマはこの状況を認めざるをえなくなった。
 こうしてもともといたローマ人の貴族たちは、あとからやってきたゲルマン人たちの支配下に置かれることになった。

でもゲルマン人たちは定住民を支配するのは慣れているんですか?
―いいところに気がついた。そりゃ慣れてない。
 もはや馬に乗ってテントを張る暮らしは終わりだ。住民たちを納得させるには、それなりに妥協することも必要だ。今後どうなっていくのかはお楽しみ。

草原地帯の東の方でも同じように遊牧民の移動は激しくなっているんですか?
―そうだよ。東と西で連動している。

 中国では大きな国(漢)が滅んでからというもの破壊的な内戦となり、結果的に3つの国の争う時代となった。「自分が皇帝だ」っていう人が3人いた時期もあるんだ。

 でもそのうち黄河に拠点を置いた国がようやく統一を果たした。
 しかし今度はそこに遊牧民がやってきたわけだ。

遊牧民たちが定住民エリアを支配するために、やはりここでも彼らは中国の伝統的な価値観を大切にした
 「郷に入っては郷に従え」というわけだ。

 一方、遊牧民エリアに残ったグループも当然いた。「トルコ系の言葉」を話す人たちの動きが活発になるのはこのころのことだ。

トルコってどこにある国ですか?
―いまは西アジアのヨーロッパのすぐ隣にある国に、「トルコ系の言葉」を話す人たちがたくさん暮らしている。でも彼らのふるさとは、中国の北にあるモンゴルのほうなんだ。

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◆200年~400年のアジア

◇200年~400年のアジア  東アジア
―この時代には遊牧民が中国に移動して来て、「中国の皇帝」を名乗る支配者も現れるよ。

遊牧民が北から攻めてきて、中国人は大変ですね。
―まあ、「中国人」って「中国の文化(漢字など)を受け入れた人」っていう意味ととらえれば、北のほうの遊牧民が中国文化を受け入れたってことは、見方を変えれば「中国」の範囲が遊牧民の地域にも広がり始めたっていうことになるんじゃいかな。
 実際にこの時期にある遊牧民は、自分たちの言葉をやめて「漢字」や「中国のファッション」を取り入れている。


難しいですね…
―その人がどの民族かっていうのは、「自分はなになに人なんだ」っていう”気持ち”が関わる面が大きいんだよ。日本に住んでいると”気持ち”もなにも、”日本に生まれたんだから日本人だ”って思いがちだけど。

 もともと遊牧民だった人たちも、中国の文化を受け入れて定住を始めることで、だんだんと「ふるさと」を忘れて自分たちは中国人だと考える人も増えていく。
 親は遊牧民だったけど、結婚相手は定住民ってなると、子どもは遊牧民のライフスタイルとは無関係に育つことになるよね。

 こんなふうにして、この時代の中国では遊牧民出身の人が定住民の中国人と協力関係を結んだり、あるいは「自分はやっぱり遊牧民だ!」というように中国人と敵対したりという関係がしばらく続いていくんだ。

 定住民である中国人を納得させるには、“中国的”な支配者を演じなきゃいけないから、またそれはそれで大変なんだけどね。仏教道教などのお寺の力も利用しようとした。農民に畑を与えて、大土地をもつ有力者の力が大きくならないように工夫もしたよ。


すべての中国人が遊牧民の支配者に対して納得したんですか?
―そんなことはないよ。
 遊牧民が中国に入ってきて国を建てると、多くの中国人は長江のほうに避難民として逃れていった。手付かずで未開発の地域の多かった長江下流は、このときの亡命中国人によって整備が進んだんだ。

 開発がすすむと、南中国は経済的には北よりもはるかに先進的な地域になっていく。 このときの混乱によっておびただしい人の命が奪われてしまったのだけどね


南に逃げた中国人は、北の皇帝に従ったんですか?
―ううん、彼らは北に建てられた遊牧民の皇帝を認めず、南で自分たちの皇帝の国を建てたよ。
 ちなみに当時の日本で前方後円墳という古墳をつくらせるくらいのパワーをもっていた王様たち「南が本当の皇帝だ」と判断して、使者を送っている。

皇帝が二人いる状態になったんですか。
―だから支配者たちは、「いかに自分たちのほうが完璧な中国文化を持っているか」っていうことをマウンティングし合った。書道とかとか、「中国っぽい文化」のルーツはだいたいこの時期に確立したんだよ。

なるほど。では朝鮮はどうなっていますか?
―朝鮮の北の方では狩りを得意とする一団が強い国(高句麗)をつくっている。中国は朝鮮の支配をキープしようと役所を残すけど、国がバラバラになると経営は厳しくなっていく。


どうして中国は朝鮮にこだわったんですか?
―朝鮮は資源も豊富で、貿易の窓口にもなった。日本のほうとのつながりもあったんだけど、高句麗の力が強くて、南のほうにあった国々は「どうしようか」とお困りの様子だよ。


◇200年~400年のアジア  東南アジア
―季節風貿易がブームになればなるほど、東南アジアでは港町や貿易ルートをコントロールする支配者に力が集まった。
 ベトナム(地図)の南のほうの人たちの国が特に栄えている。
 インドや中国はこの地の富に注目しているよ。


◇200年~400年のアジア  南アジア
―この時期、インドではグプタ朝という国が広い範囲の統一に成功した。支配者たちは多くの人を納得させるため、各地でまつられている神様たちを利用した。

たくさんの神様がいるんじゃ、誰が偉い神様かわからなくないですか?
 ―そうだね。そこで各地の神様に序列をつけて、とくに人気の高かった神様のランクを上にしたんだ。特にシヴァという神様が人気だ。

 もともとインドにはバラモンという神官が自然の神様に対してお祈りをする宗教があったけど、人気を高めるために各地の「ご当地神様」の人気にあやかったわけだよ。
 神様に愛されるためには「こんな生き方をするべきだ」というルールが定められ、人々は身分や職業別にそうしたルールを守って暮らした神様の登場する昔話もたくさん作られたよ。

仏教の人気はなくなってしまったんですか?
―仏教の修行をする人はまだ健在で、人里離れた山奥では岸壁を切り開いたお寺が建てられた。でも一般人にとっては地元の神様と仏教の開祖の区別はあんまり重要なものじゃなくなっていき、仏教を信じる人は減っていくんだ。


インドで生まれたのにインドでは信じられなくなっていくんですね。
―ちょっと不思議だね。でも仏教の開祖は、インドの神様の「化身(けしん)」のひとつになってしまっている。吸収されてしまったわけだね。
 逆にインドの外のほうで仏教はさかんになっていくんだ。この時期にも中国からお坊さんが「本物のお経」をゲットしようとインドを訪れているよ。


◇200年~400年のアジア  西アジア
―イランではパルティアという国がユーラシアの東西ビジネスルートをコントロールして、西のローマと張り合っていた。

 でもこの時代にはペルシア人という民族が反乱を起こして巨大な国を建設したよ。


「ペルシア」ってどこかで聞いたことがありますね。
―昔、エジプトやギリシャのほうまで支配した巨大な国ペルシア人によるものだったよね。
 パルティアはギリシャ人の影響が強かったから、昔のペルシア人の「伝統」に帰ろうとする動きが起こったわけだ。
 王様は、「この世は善の神と悪の神の戦いによって動いている」という宗教を保護していたよ。おそらく草原地帯の遊牧民の伝統的な信仰を受け継いだ宗教だ。

 でも宗教というのはいったん「支配者に保護」されると、「一般の人々の気持ち」からは離れていくもの。
 この時期にはキリスト教の影響を受けた新興宗教(注:マニ教)が流行し、ペルシアの王様に弾圧されている。

この新興宗教はその後どうなったんですか?
―迫害されて黙ったわけではなく、ユーラシア大陸の各地に拠点をつくって広がったんだ。地中海のほう中国方面にも広がっているよ。魅力的な教えだったんだね。

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◆200年~400年のアフリカ

―北アフリカはローマ帝国の支配下にあったけど、しだいに支配はゆるんでいく。
 バントゥー系のアフリカ東部・南部への移動も続いているよ。

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◆200年~400年のヨーロッパ

―領土を拡げすぎたローマでは、“田舎”出身のいろんな民族の軍人が皇帝に即位し、大混乱に見舞われる。

どうしてそんなことになったんですか?
―各地の人々の人気をとるために、「ローマ帝国に住んでいる人全員に政治に参加する権利を与える」とおふれを出した皇帝がいたんだ。
 でも選挙権が広がれば広がるほど、多くの人をコントロールすることは難しくなるよね。いろんな意見が政治の舞台に届けられることになるからだ。

 そこで、「これだけ領土が広くなったら、もはや一人で支配するのは無理だ」と、2人の皇帝と2人の副帝、合計4人で帝国を分担しようとする皇帝が登場。「国への忠誠」を形で示すことができるよう、皇帝を神として崇める儀式を導入もした。

 しかしローマは、そんな小手先でまとまる状態ではなくなっていた。なにせ「どこに誰が住んでいるのか」という情報でさえ、把握することが難しくなっていたのだ。

 そこでキリスト教を利用しようと思い立った皇帝が登場する。教会は人の生き死にに関与してますから、住民のデータを握っている。皇帝は国を立て直すために、今までさんざん弾圧していたキリスト教を「認めた」わけだ。

 しかし時すでに遅し。
 ゲルマン人の大移動によって”とどめ”を刺されることとなった

 広くなりすぎたローマは、皇帝の2人の息子に分割して相続され、「一人の皇帝による全土の統治」が実現することは二度となかった。


つまりローマは2つに「分かれた」ってことですか?
―そうだよ。
 まあ、もともと大きく2つに分けて4人の皇帝で分けていたわけだから、いきなり2つに分かれたわけじゃないんだけれど、このとき分かれた東側のローマ西側のローマは、別々の運命たどっていくことになるよ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊