世界史のまとめ × SDGs 第19回 工業化された世界と、工業化されていない世界(1815年~1848年)
SDGs(エスディージーズ)とは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
17の目標の詳細はこちら。
SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います?
目次
【1】工業化した社会の人々の暮らしは、どのよう変化したか?
【2】国外に「移動した人たち」は、幸せな生活を送ることができたのだろうか?
【3】工業化したヨーロッパ諸国の進出を受けた地域は、どのような影響を受けたのだろうか?
【1】工業化した社会の人々の暮らしは、どのよう変化したか?
イギリスで生まれたイノベーションがいくつかの国にも移転され、「工業化した」地域と「していない」地域との間の格差が歴然とするようになっていった。
目標 11.1 2030年までに、全ての人々の、適切、安全かつ安価な住宅及び基本的サービスへのアクセスを確保し、スラムを改善する。
目標 11.2 2030年までに、脆弱な立場にある人々、女性、子供、障害者及び高齢者のニーズに特に配慮し、公共交通機関の拡大などを通じた交通の安全性改善により、全ての人々に、安全かつ安価で容易に利用できる、持続可能な輸送システムへのアクセスを提供する。
目標 11.3 2030年までに、包摂的かつ持続可能な都市化を促進し、全ての国々の参加型、包摂的かつ持続可能な人間居住計画・管理の能力を強化する。
目標 11.6 2030年までに、大気の質及び一般並びにその他の廃棄物の管理に特別な注意を払うことによるものを含め、都市の一人当たりの環境上の悪影響を軽減する。
目標 11.a 各国・地域規模の開発計画の強化を通じて、経済、社会、環境面における都市部、都市周辺部及び農村部間の良好なつながりを支援する。
―前回見たように、イギリスで始まった新技術(注:蒸気機関)のインパクトは、急速に世界に広がっている。
フランス最初の蒸気機関車の模型(SNCFのウェブサイト「THE STORY OF
FRENCH RAIL」より)
世界各地で、イギリスのペースに合わせて協力しようとする人たち、イギリスに追いつこうとがんばる人たち、そもそもそんなこと意に介さない人たちが、さまざまな反応を示した。
新しいテクノロジーが導入されると、人間社会は大きく変わりますよね。
―そうだね。
時間的にのんびり長い時間をかけて作っていたものが、蒸気機関のエネルギーによってごく短期間でつくられるようになれば、より一層「時間刻み」で人間社会が動くようになっていく。
また、空間的に離れている地点がごく短時間で結ばれることで、異国に対する想像力にも変化が生じることとなる。
時間と空間の前提がおおきく変わることで、人間の共有する知識の質も大きく変わっていくよね。
それだけ目まぐるしく社会が大きく変化していくってことですもんね。
―トフラーという未来学者はこう言う。
その昔、社会がそれほど変化しなかったころ、老人が尊敬されていたのは、過去を知っていたからだといわれることが多いが、そうではない。未来を知っていたからである。未来は過去とほとんど変わらなかったのだ。
(アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー『富の未来(上)』講談社、2006、p.266)
時間と空間のとらえかたが変化すると、「人間とはなにか」「社会とはなにか」「富とはなにか」という考え方も、根本的な変化を迫られることになる。
たとえば、「世の中どんどんよくなる」のだから、自分たち人間も「個性」を発揮して、それを伸ばして「進歩」していくべきだという考え方。
また、「お金」をさまざまな方法で時間的に増殖させ、価値を増やしていくことが「富」の拡大につながるという考え方。
世の中がごく短期間で変貌すると、「普遍的に変わらない」知識に対して疑いの目が向けられるようになるというわけだ。
これらの変化のなかでもっとも重要な点は、自然科学の勃興の後、宗教的な権威の地位が低下したことである。宗教的な権威に簡単に無条件にしたがう姿勢は薄れた。新たな問題にぶつかったとき、宗教指導者以外に答えを求める傾向が強まった。神父や牧師は知識を授けてくれる唯一の源泉ではなくなり、最善の源泉でもなくなった。
このような変化が起こるとき、戦いが起こるのは避けられない。この戦いで自然科学が徐々に勝利を収めるようになった。宗教の権威を完全に否定したわけではないが、普遍的で究極的な真実の唯一の源泉だとする主張をくつがえしてきたのである(上掲、p.264)。
この時代の大きな変化は2つある。
① 工業中心の社会への移行
「エネルギー源の劇的変化にともなう、人間社会の工業化」(注:産業革命)
② 身分で決まる社会の否定
「自立した経済力を持ち、独立した意志を持つ法的に平等な個人が、自由にまとまっていくべきだという新しい考えに基づく社会の建設」(注:市民革命)
主に西ヨーロッパと北アメリカでは、この「2つの革命」が両輪となって、今までになかった「バージョンアップされた社会」(注:近代社会)が誕生することとなった。
そこでは、日進月歩の科学技術が新たな道具を編み出し、不便な社会や自然を次々に作り変え、さらには軍事力にも応用されていくこととなる(行き着いた先は、「人間がゴミのように死ぬ」大戦(注:総力戦)だった)。
前の時代に盛んになった「人間のアタマで考えられないことはない」「理性をフル回転させて、不合理な社会を変えていこう!」という考え(注:啓蒙思想)は、「科学の力に頼れば、世の中なんでも良くなる」という考えにシフト。一種「科学教」のような様相を呈することとなり、未だに根強い宗教的権威とぶつかる場面も出てくるようになる。
この「2つの革命」のことは、歴史家によって「二重革命」と呼ばれることがある。
このプロセスが進む中で、しだいにユーラシア大陸の西(ヨーロッパ)と東(中国)との間に、経済的な格差が開いていくことになるんだ(注:大分岐)。
「2つの革命」以前に勝負がついていたわけではないんですね。
―近年ではそういうふうに考える研究者が多いよ。
そもそも産業革命っていうのは、「先進工業地帯」インドに追いつくために「後進工業地帯」イギリスで起きたイノベーションのことだからね。
(Visual Capitalist Over 2,000 Years of Economic History in One Chart
ALL MAJOR POWERS COMPARED BY GDP FROM THE YEAR 1 AD(アンガス・マディソンによる)より)
そんな中、ヨーロッパで起きたのが、フランスの軍人皇帝の登場でしたね。
彼はヨーロッパの大部分を征服し、敗北。その後はどうなったのですか?
フランスの軍人皇帝は、赤いエリアを征服し、オレンジの地域に傀儡政権を建て、ピンクの地域を服属させたが、イギリス征服には失敗した(Emerson Kent.comより)
―「ヨーロッパの大混乱の原因は、政治参加の拡大にある」
「やつらを政治に参加させたら、ロクなことがない」
これがヨーロッパの王族、貴族たちの共通認識だ。
秩序回復のためにはヨーロッパを、皇帝・王様・貴族の体制に戻そう。
この「昔に戻す」体制(注:ウィーン体制)の中心になったのが、まさにヨーロッパの中心にあったオーストリアの皇帝だ。
オーストリアはかつては神聖ローマ帝国という、由緒正しい国のトップだった。しかしそれがフランスの軍人皇帝(注:ナポレオン)に滅ぼされ、今度はヨーロッパの「復興」の中心に立つことで「栄光」を取り戻そうとしたんだ。
でも、イギリスはそれが気に食わない。
だけど、あんまりヨーロッパのことには関わりたくない。
だから、直接かかわらずに外でじーっと様子をうかがっているのが当時のイギリスだ。
新技術を一番乗りで導入して、世界で一番の工業国になっていますもんね。
―べつに友達がいなくたって、かまわない。「余裕」なんだ。
一方、オーストリアと陸続きの国 ロシアは、オーストリアがリーダーを気取ることにいらだちを隠せない。
ロシアは経済的にはイギリスにはとうてい追いつける状態ではない。まずは領土を広げ、農業のできる土地と凍らない港を確保することが先決だった。
じゃあ、どこに進出しようとしたんでしょう?
―南、そして東だ。
ヨーロッパの東部には暖かい海流(注:北大西洋海流)が北上しているから、東に行くほど温暖になる。
そこでジャマになるのが、中央ヨーロッパの大国であるオーストリアだ。
フランスの皇帝を追い出した後、オーストリアはヨーロッパの政治の中心に立とうとしていた。
皇帝と王様のヨーロッパに戻すっていっても、なんだか団結力はなさそうですね。
―その通り。
時代は「身分がすべて」な時代から、「実力がすべて」の時代に変わりつつある。
国を強くしたいのなら、実力を付けたビジネスマンの意見を取り入れ、政治に参加させることも重要だ。
皇帝や王様は保守的(変化に弱い)から、「変わる」ことを恐れる。
だけど、これからの時代は刻一刻と変化するビジネスチャンスに合わせ、「変わる」ことを恐れない力が必要となっていたわけだ。
どこかで「爆発」しそうですね。
―その通り。
フランスでは2段階で爆発するよ。
まず、第一段階で王様が追放されて、ビジネスに理解のある親戚の家系から王様が呼ばれた(注:七月革命)。
でも、その王様は一部の極端なお金持ちの意見しか聞こうとしなかったから、企業家たちが怒って、もう一度王様を追放したんだ(注:二月革命)。
じゃあ、二度目の事件で、企業家たちが中心になった国づくりが進められたんですか?
―いや、この二度目の事件には、多くの貧しい労働者も参加したんだ。
「もう一度、世の中がひっくり返れば、自分たち労働者にも優しい国に生まれ変わるかもしれない」と期待したからだ。
どうしてそんな主張を?
―蒸気機関を用いた機械によって、工場で商品を生産するビジネスが盛んになっていくと、「はたらく人」がそれこそ「駒(こま)」のように使われるようになる問題が発生していた。
奴隷を使っていたんじゃなかったでしたっけ?
―当時はすでに「アフリカから奴隷を連れてきて働かせること」は「やってはいけないこと」「効率のわるいこと」と認識されるようになっていた。
それにヨーロッパでは一連の政治変動を経て、領主のもとで不自由な暮らしを強いられる農民(注:農奴)も、土地をゲットすることができるようになる地域も増えていた。
逆に農奴を解放しないままの国(例えばロシア)は、西ヨーロッパに対して工業化が遅れていった(ロシアの農奴(wikimedia commonsより))
工場は、原料・燃料・商品の輸送に便利な地点に建てられ、そこには労働者たちが田舎から出てきて集まり、あたらしい「工業都市」が生まれていった。
従順にいうことを聞く子どもや女性がターゲットとなり、ブラックな働かせ方(注:長時間労働、児童労働)が横行した。この時期のイギリスでは、それを規制する法整備もおこなわれている(注:工場法)けど、不安定な日雇い労働者の処遇はとくに厳しく、各地で労働者が団結する動きも生まれていった。
貧しい人たちの暮らす地区もできそうですね。
―スラムだね。
工場の煙突から出る、燃やした石炭のすすで大気が汚染され、上水道などのインフラが未整備のスラムではひんぱんにコレラなどの伝染病も流行するようになった。
この時期の末期には近未来に、”労働者中心の社会”が出現すると「予言」する書物も発表されているよ。
まさに「時代の変わり目」って感じですね。
―フランスを起点とする一連の事件の影響はヨーロッパ中に広がり、各地で「昔に戻そうとする古臭い皇帝や王様」が倒され、自由にビジネスをしたい企業家たちが政治に参加するようになっていくことになるよ。
もちろん地域によって差はあるけどね。
当のフランスでは労働者による労働者のための政策(注:国立作業場)が失敗し、暴動に発展(注:六月暴動。ミュージカル(映画)「レ・ミゼラブル」の暴動はこれがモチーフ)。
さらに混迷を深める結果となった。
この時代の企業家たちは、どんな国づくりを目指したんですか?
―まずは「国が、国としてしっかりまとまる」ことを目指したよ。
バラバラのままだと、ビジネスのルールもバラバラでは取引も不安定だ。
それに言葉の違いも面倒だ。
ドイツ人の住んでいる地域では、いちばん産業の発展していたプロイセンが中心になって、まずは経済的にドイツをまとめようという運動が起きている。
おなじく、この時代の初めに10の国に分けられていたイタリア半島でも、統一をめざす運動がはじまっているよ。
* * *
【2】国外に「移動した人たち」は、幸せな生活を送ることができたのだろうか?
アメリカ合衆国は最大の移民受け入れ国となったが、自由移民だけでなくなかには半強制的に移動させられた人々もいた。
目標 8.7 強制労働を根絶し、現代の奴隷制、人身売買を終らせるための緊急かつ効果的な措置の実施、最悪な形態の児童労働の禁止及び撲滅を確保する。2025年までに児童兵士の募集と使用を含むあらゆる形態の児童労働を撲滅する。
目標 8.8 移住労働者、特に女性の移住労働者や不安定な雇用状態にある労働者など、全ての労働者の権利を保護し、安全・安心な労働環境を促進する。
生まれたばかりのアメリカ合衆国は、安定しているでしょうか?
―イギリスとの最期の戦争(注:アメリカ・イギリス戦争)を経て、政治は一時的に落ち着いているよ。
でもアメリカの南部には広大な綿花プランテーションがあって、ここから自由な条件で輸出される綿花は、イギリスの綿織物産業を支えることとなった。
つまりアメリカ合衆国の南部は、まだまだイギリスに都合よく結びついているってことですね。
―そうそう。
経済的な結びつきからまだ脱していないわけ。
また、先住民のインディアンたちとの戦いは依然として続いている。
インディアンの人たちは弱かったんですか?
―スペイン人のもたらしたウマに乗り武装するグループもいたけど、白人の開拓者の武力に、敗北を重ねていくことになる。
アメリカ合衆国南部の綿花のプランテーションで厳しい労働をさせられていたアフリカ系の奴隷たちの中には、農場から逃げてインディアンとともに他民族・他人種のグループをつくり、白人との立ち向かった例もあったんだよ(注:ブラック・セミノール)。
馬に乗る現代のインディアン(注:ショショーニ族)
アメリカは西へ西へ領土を拡大していくとともに、「アメリカ人らしさ」とは「未知の世界を切り開く開拓者精神だ」というアイデンティティをふくらませていった(注:フロンティア・スピリット、マニフェスト・ディスティニー(アメリカがインディアンを追いやって「文明」を広めるのは「疑問の余地のない当たり前の運命だ」という意味。下図(wikimedia commonsより)))。
この時期にはメキシコと戦争し、広大な土地を併合している(注:アメリカ・メキシコ戦争中のアラモ砦の戦い(下記映画)の記憶は、その後のアメリカが国民を動員する際のスローガンとして使われ続けることになる)。
―また、この時期にアメリカの大統領はヨーロッパに対して「ぼくたちはヨーロッパには手出ししない。だから、ヨーロッパのみなさんもアメリカには口出ししないでほしい」と呼びかけている(注:モンロー主義)。
どうしてそんなことを呼びかけたんですか?
―それにヨーロッパ諸国が、ふたたび北アメリカにやってこないとも限らないでしょ。
アメリカとヨーロッパとの時間的な近さ(注:時間距離)はますます狭くなっているからね。
そういえば、中央アメリカや南アメリカには、スペインやポルトガルの植民地がありましたよね。
―この時期に、これらの植民地はいっせいに独立していくよ。
ペルー、ボリビア、コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン、チリ…。どれも聞いたことのある名前だよね。
指導したのはアメリカ生まれの白人(注:クリオーリョ)だ。
しかも、ブラジルを除きすべて王様のいない国(注:共和国)だ。
アメリカ合衆国と一緒ですね。
―そうだね。
イギリスやフランスで盛んになっていた「自由と平等を保障された個人」により「新しい社会をつくるべきだ」という考えを採用した点も同じだね(注:環大西洋革命)。
彼らは広大な土地を持つ支配階層だったけど、スペインやポルトガル本国からああしろこうしろと口出しされるのがウザくなっていたんだ。
だから新しい国づくりにあたって、先住民や黒人の意見が反映されていくとは限らないよ。
この時期にできた国だったんですね。意外と新しい…。
―だよね。
ヨーロッパの国々からすると、これらエリアを失うのは「もったいない」話だ。だってこの地域では金、銀、銅やいろんな農産物がとれるからね。
農産物って例えば何ですか?
―例えばコーヒーだ。
ヨーロッパでは産業革命がすすんで、工場の働き手はぐんと増えている。「眠気覚まし」のコーヒーの消費量が増えると、ブラジルの高原地帯(注:サンパウロ)でコーヒーの大量栽培が始まった。
そうすると、イギリスと協力して自由な貿易関係をつくっていこうというグループと、イギリス製品の輸入を阻止しようとするグループの対立も起きるようになっているよ。
というわけで、南アメリカの植民地を失いたくないヨーロッパの王様は独立運動をジャマしようとしたんだ。
それに対して、アメリカ合衆国は「ジャマするな」って抗議した(注:モンロー宣言)。
でも結局これらの地域で商売を始めようとしていったのは、さっきのコーヒーの話でもでてきたイギリスだ。
さすがのアメリカも、イギリスの軍事力を前にしては口ごたえもできない。
イギリスがどのような対応をしたのかは、「【3】工業化したヨーロッパ諸国の進出を受けた地域は、どのような影響を受けたのだろうか?」で見ていくことにしよう。
また、北方の新興国であるアメリカ合衆国は、その後も虎視眈々(こしたんたん)とこの地域への進出を狙い続ける。
ヨーロッパに「口出しするな」っていうことは、ヨーロッパからアメリカに渡る人も減ってしまったということですか?
―ううん、アメリカへの「移民」の波は止まらない。
身分とか伝統のないアメリカは、ヨーロッパの人たちからみると「夢の国」に移ったわけだ(注:自分からすすんで移動する人の移動を、プル型の人口移動という。プルとは「引っ張る」という意味だ)。
ただ、やむにやまれず移動してきた人たちもいる(注:プッシュ型の人口移動)。
どんな人たちですか?
―アイルランド人だ。
この時代の終わりごろ、アイルランドでジャガイモの伝染病が大流行。
ただでさえイギリスにより土地を支配されていたアイルランド人にとって、ぜいたくな小麦に代わって重要な食料だったジャガイモが壊滅したことは、大打撃となった。
このときに、のちにアメリカの大統領にのぼりつめた人物(注:ケネディ)の祖先も、アイルランドからアメリカにわたっている。
アメリカ合衆国はどうして移民を受け入れたんですか?
―働き手が足りなかったからだ。
世界中から移民を受け入れ、独立から100年で人口は約14.3倍に増加することになる。
移民たちは都市の内部で固まって住むことが多かった。
貧しい暮らしの中、きびしい差別も受けた。
移民の暮らしは大変だったんですね。
―世界的に「奴隷制度」が廃止される方向に向かうと、その「代替」として代わりに「有期の契約労働者」っていう名目で働かせる方法もはびこるようになるよ(注:クーリー(苦力))。
むろん、「奴隷制度」も完全になくなっているわけではない。
工業化が進むと、世界は「工業化していない世界」と「工業化した世界」の2つに分かれ、人々は前者から後者へと移動して、貨幣を得るために「働き口」を探すようになっていく。
立場の弱い移民たちの生き方を、どうやって保障することができるかは、現代の世界でも大きな課題となっている。
* * *
【3】工業化したヨーロッパ諸国の進出を受けた地域は、どのような影響を受けたのだろうか?
この時期に始まるヨーロッパ諸国によるビジネスの拡大は、現代世界の富の分布にも影響を与え続けている。
目標 10.2 2030年までに、年齢、性別、障害、人種、民族、出自、宗教、あるいは経済的地位その他の状況に関わりなく、全ての人々の能力強化及び社会的、経済的及び政治的な包含を促進する。
寒かった気候は持ち直しているんでしょうか?
―この時期の初めにインドネシアの火山(注:タンボラ山(下図:Smithonian.comより))で大噴火が起きた。その影響が世界中に広まっている。この時代の初めは「夏のない年」として記録されているほどだ。
そんな中、大陸を超えた人々の移動もますます活発になっていますね。
―風の力で動いていた船は蒸気船に代わり,馬やラクダは鉄道に代わっていった。イギリスの生んだ新技術は、従来の動力と比べ物にならないパワーを発揮した。
アメリカ東海岸のサヴァンナからイギリスのリヴァプールまで初めて大西洋を横断した蒸気船(サヴァンナ号)
―海運の発達により、内陸よりも沿海エリアの重要性はますます高まっていった。沿岸地帯にはさまざまな国の人が集まり、取引が盛んになっていくよ。
イギリスをはじめとするヨーロッパの国々やアメリカ合衆国との取引を拒否する国々の中には、武力によって攻撃を受け、むりやり国をこじ開けられる例も出ている。
強引ですね。アジアの国々は弱かったんですか?
―アジアの国々の王様の力が弱っていたのは確かだけど、民間の商工業者たちの活動は盛んだ。中国(注:清)は巨大な市場だしね。
この時代、中国南部は貿易がめちゃめちゃ盛んだったんだけれど、中国の皇帝は、イギリスが港にアヘンという薬物を売りつけに来るのが許せなかった。
なぜイギリスの商人はそんなことをしたのですか?
―本当は中国各地で自由に貿易をしたかったんだけれど、中国では貿易が認められていたのは中国南部の広州というところだけだったんだ。
しかも、指定された商人グループ(注:公行)としか取引ができない。
イギリスが売りたい「工場生産の綿布」も自由に売れない。
どうしてそんなに売りたいんですか?
―輸出によって外貨を稼ぐことが、すなわち自国の成長につながるのだという認識があったからだ。
当時のイギリスでは、自国で生産した商品をいかに世界で販売するかということが重要視されていた。
できれば原料の輸入先も世界中に確保したい。
武力で植民地を獲得できるならばそうするし、そこまでしなくても自由に貿易してくれる条件さえ現地の政権に飲ませることができればもっと安いコストで貿易相手とすることができる。
戦争もせず、イギリスの条件も飲まないという選択肢はなかったんですか?
―それは難しいね。
イギリスには圧倒的な海軍力があるから。
特にこの時期、インド、アフリカ、オセアニア、旧スペイン領のアメリカ(中央アメリカ~南アメリカ(ラテンアメリカ))は、イギリスの突きつける条件を飲まざるを得ない形となっていた。
なんとか対抗できないものですかね?
―「蒸気機関」という動力を導入して、工業製品を生産できたかどうかということが、国力の差にどうしても響いてしまうんだ。
ただ、条件を受け入れたところで、イギリスからは激安の工業製品がドドっと押し寄せてくるわけなので、在来の手工業製品は壊滅だ。
「自由」っていうのは、立場が強い人が掲げる価値なんですね。
―そう。
スタートラインを「せーの!」で同じにしようとするのが「自由」な競争を確保しようという考え。
各自のレベルに合わせて、スタートラインを調整しようとするのが「平等」の考えだ。
イギリスの主張するゲームに参入するには「自由」というルールを飲まなきゃならないけど、参入しなければ「新しい技術」をモノにすることもできないというジレンマがあったわけだ。
中国の場合、イギリスはどういう対応をとったんですか?
―中国の場合、政権の中心は北部にあって、南部にある港町では商人たちが積極的に活動していた。
中国南部の商人たちといっても、参加者のバックグランドはさまざま。
東アジアから東南アジアにかけての海は、周辺の政権が厳しく「入国管理」をしている(⇒前回の時代を参照)とはいえ、多種多様なエリアから貿易に携わる人がひしめいていたんだ。
そこで、インドで生産したアヘンを売りつけ、中国の魅力的な商品を買い付けるという方法がとられたわけだ。
中国は禁止しなかったんですか?
―政府としては特権商人(注:公行)との貿易に限定させたかったわけだが、当然のように密貿易も横行していた。
特別大臣(注:林則徐)の命令により、港にあったアヘンの箱を燃やさせた。
そうしたらイギリスの商人は激怒!
”待ってました”とばかりに大問題となり、イギリスの議会で議論された結果、わずかの差ではあるけれども、中国と自由に貿易をするために戦争をしよう!ということになったんだ。
「自由に貿易したいから戦争」って…すごいですね。
―その名もアヘン戦争。反対した人はいたんだけど、強行突破された。
で、結果的に大敗した中国は、巨額の賠償をする責任を負わされ、さらに自由に貿易のできる港を開かされた。このときに香港(ホンコン)という島も、イギリスに取られている。
(東京大学 Todai OCW 学術俯瞰講義 Copyright 2012, 羽田 正 より)
これは何ですか?
―中国の歴史教科書『世界通史』の章立てだ。
「第6章」に「二つの文明のアジアにおける衝突」とあるように、この時期に起きたイギリスとの戦争の敗北は「西洋の衝撃」(ウェスタンインパクト)として、中国人の記憶に強く刻まれつづけている。
でも中国って、これまでもまったくヨーロッパ諸国と接触がなかったわけじゃないですよね?
―たしかに、キリスト教の修道士や商人など、交流はあったよね。
大航海時代のころからポルトガル人が中国沿岸にやって来ていたし、広州が「特別に貿易できるところ」というお墨付きをもらってからはイギリス人も訪れるようになっていたよね。
英語と中国語のミックスした言葉も生まれている(注:ピジン英語。日本では横浜ピジン日本語)。
だけど、ヨーロッパ諸国のように「蒸気機関」というイノベーションを生み出すにはいたらず、一般国民を総動員したフランスの軍隊のような制度を構築することもできずにいた。
こうして「ヨーロッパのように「まとまりのある国」をつくらなければ、経済的にも軍事的にも、ヨーロッパの言いなりになってしまう」という焦りが生まれたわけだ。
しかし、しだいに中国の皇帝の力が弱まると、中国では地方の有力者や非公式なネットワーク(注:人と人との血縁・出身地や義理人情などによるつながり)の力が相対的に強まっていくことになる。
次回以降、西洋の衝撃に対して、皇帝を中心とする中央政権だけでなく、民間のさまざまな組織がどのような形で生き残りをかけていったのかを見ていくことにしよう。
日本はどのような対応をしたんでしょう?
―当然ビビる。
「おいおい、中国ってその程度だったのかよ!」「ヨーロッパってどんだけすごいんだよ!」と。
こりゃまずいということで、日本は沿岸警備に乗り出すことになる。
情報はどうやって手にいれていたんですか?
―中国人の著作(注:『海国兵談』)や訳してくれた西洋の本を参考にしたんだ。
この時期には「入国管理」がかなり厳しくなるけど、海外への窓口を完全にシャットアウトしていたわけではなく、朝鮮・琉球・オランダと中国・アイヌにつながる「4つの窓口」があったわけだから、それぞれから大陸の最新情報を得ていたんだよ。のちに、それを翻訳し直すための役所(蕃書調所)も設置されている(注:唐船風説書、岩田高明「官板海外新聞の西洋教育・学術情報―『官板六合叢談』を中心に―」『安田女子大学』紀要37、pp.129-138、2009.)。
また戦争の後にはオランダ国王から日本の将軍向けに「このままでは危ないですよ」というアドバイスもなされている。
(注)『視聴草』(みききぐさ) 天保15年(1844)7月、オランダ国王ウィレム2世の「日本国王」(徳川将軍)あての手紙(国書)を携えて、特使コープスが長崎に来航します。手紙には、蒸気船の発達で通商がますます盛んになっている昨今、日本がこのまま鎖国を続ければ西欧諸国と摩擦が生じ、アヘン戦争で惨敗した清国のようになる恐れがあると書かれていました。開国の勧告。しかし幕府はオランダ国王の勧告に従う意志のない旨を回答しました。(国立公文書館ウェブサイトより)
『視聴草』続八集の四は、「甲辰阿蘭舟到来(きの
東南アジアはどうですか?
―この時期の東南アジアでは、ヨーロッパの国々による植民地支配が強まるよ。
イギリスはインドを最重要の植民地として位置づけているから、それを守るためにならなんでもした。
インドからアヘンを中国に運んで貿易赤字を埋めようとしていたから、そのルートの「中間地点」にあるマレー半島はとっても重要だ。
現在のマレーシアのあたりの港町を植民地として組み込んでいるよ。
ライバルのフランスはどうですか?
―建国するときに援助したベトナム(注:阮朝)に「言うことを聞け」と、恩を仇(あだ)で返そうとしているよ。ベトナムの皇帝もだんだんフランスのことがウザくなってきている。
フランスも中国でビジネスをしたかったので、イギリスが中国との戦争で勝つと、そのタイミングでほぼ同じ内容の不平等な条約を中国と結んでいるよ(注:黄埔条約)。
代わって、スペインの力はどんどん下がっているね。太平洋を横断する貿易もこの時代には幕を閉じている。植民地化しているフィリピンでは、スペインよりも中国人商人の活動が活発になっているよ。
最後にオランダ。
オランダは現在のインドネシアの支配を強めていて、お金を稼ぐために住民たちに強制的にコーヒーなどのもうかる作物を栽培させている(注:強制栽培制度)。
お米の栽培よりもコーヒーの栽培を優先させたことで住民に影響も出るけど、この時代には畑の面積が広がり、結果的に人口は増えていったんだ。現在のインドネシアでもジャワ島への人口集中は、国にとっての課題の一つだ(注:トランスミグラシ政策という、人口の分散計画も実施されている)。
インドはどうなっていますか?
―インドにはイギリスの露骨な侵略がすすんでいる。
北部のシク教徒の王国や、中央部のヒンドゥー教徒の王国を戦争で破り、住民たちにお金になる作物を栽培させている。その代表例がアヘンという薬物だ。
インドはイギリスが直接支配していたんですか?
―ううん、イギリスが直接おこなっていたわけではない。
「東インド会社」という国公認の会社に担当させたんだ。
税を取る仕事までおこなっていたわけだし、この時代には貿易部門が廃止されるから、貿易ビジネスから支配代行ビジネスがメインとななっていったわけだ。
住民たちを支配する各地の王様たちはそのまま残した。住民の不満が直接イギリスに向かわないようにしたためだね。
でも人々の不満はじわじわとたまり、やがて爆発することになるよ。
また、西アジアではイランの王国(注:ガージャール朝)と、地中海西部一帯のオスマン帝国がピンチだ。
前者はロシアにこの時期アルメニアを割譲し、イギリスやフランスもロシアとおなじような不平等条約をイランに突きつけた。安価な工業製品が流れ込んだことで、イランの養蚕産業・織物産業は打撃を受ける。
後者のオスマン帝国には、北からのロシア政府やロシア系の商人の進出が激化し、支配地域のエジプトも事実上独立してしまった(注:ムハンマド=アリー朝)。
さらに、イギリスはアラビア半島の北側のペルシア湾沿いの国々を、次々にコントロール下に置いている。現在アラビア半島沿岸に小さな独立国がひしめいているのは、イギリスが個々に現地の有力者を保護下に収めていったことの名残である。
ギリシャが、ヨーロッパ諸国のサポートを得てオスマン帝国から独立したのもこの時期のことだ(注:ギリシャ独立戦争)。
慌てた皇帝は急いで古い軍隊(注:イェニチェリ)を解散してヨーロッパ式の軍隊を整備するなど改革を始めた。
その後も宰相が中心となって、「国のまとまり」を強化するヨーロッパ化改革(注:タンズィマート)が進められたけど、憲法の制定にまでは至らなかった。
こんな調子だとますますヨーロッパ諸国につけこまれますね。
―だよね。
ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の中にいるいろんなグループに、「お前たちは○○人だ。○○教徒だ。さっさと独立したほうがいい」とアドバイスする。
もともとそんな意識はこれっぽっちもなかったのに、だ。
オスマン帝国はゆる~く支配をしていたんですもんね。
―そうそう。
でも、この時代には支配地域にあったギリシアがヨーロッパ諸国の支援で独立してしまうし、エジプトもコントロール不能になってしまった。
ヨーロッパ諸国は独立運動を助けるフリして、恩を売りたいだけだったんだ。「助けてやったんだから、領土や港をよこせ」って言いたいがための行動だ。
オスマン帝国側も、このようなバラバラの状況に対して、なんとかしなければという思いから、「オスマン帝国はオスマン人の国だ!」っていう意識を国民に持たせようとする。民族も宗教もいろいろだけど、みんな平等のオスマン人だ、っていうわけだ。
イスラーム教徒とそうじゃない人の差をなくし、住民の声を政治に反映させるアファーマティブ・アクションの仕組みもつくられていったけど、かえって両者のバランスを崩すことにもつながった。
強い国をつくりたいんだったら、「○○人」しかいない国を作ればいいっていう考え方。これってヨーロッパの考えの影響ですかね。
―そうそう。
「○○人」という共通の意識を持った国を作ることで、強い国をつくろうという考え方はこの時代のヨーロッパで流行していた。
でも、これを実現しようとすると、かなり強引に進めなきゃいけない部分も出てくるよね。
単純に「○○人」しか存在しない地域なんて、地球上どこ探してもないわけで。
狭いヨーロッパでさえ大変なんだから、オスマン帝国でそれをやろうったって、そりゃあ難しいわけだ。
一方、オスマン帝国に支配されていたバルカン半島では、それを見習って自分たちの国をつくろうとする運動も盛んになっている。
政治的な「まとまり」を強めていたヨーロッパ諸国と、オスマン帝国の「真ん中」に位置するバルカン半島は、両者の思惑に挟まれる形となり、各民族の運動がさまざまな大国に利用され、21世紀にいたるまでに、あれよあれよとあっという間に細かい国家に細分化されていくことになった(注:バルカニゼーション(バルカン化))。
小さくなればそれだけ国力も削がれてしまう。
「民族ごとにまとまり国をつくろう」とする運動の成功が、必ずしもその地域の安定を生むとは限らないことを示す例ともいえるね。
アフリカはどうなっていますか?
―東アフリカでは、アラビア半島のオマーン(注:オマーン海上帝国)が進出して貿易がブームとなっている。
南アフリカはイギリスの植民地となり、土地を追われたオランダ系住民(注:ボーア人)は北へと逃げていった。一方、バントゥー系の民族どうしの争いも激化し、“戦国時代”となっている(注:ズールー王国)。
貿易が盛んになったことも関係しているんでしょうか。
―それもあるだろうね。
西アフリカでは、イスラーム教を旗印に遊牧民と定住民が協力した国が支配エリアをひろげている(注:フラニ(ソコト)帝国)。
他方、欧米で奴隷制度を廃止しようという動きが進んでいくと、その「代替」としてヨーロッパ諸国は、熱帯地域の商品作物づくりをすすめていくことになる。
なお、アメリカ合衆国ではこの時期に「かわいそうな黒人をアフリカにかえしてあげよう」という運動が置きて、「自由な国」という意味のリベリアっていう国を建国させてあげた。でも、縁もゆかりもない人が国を建てたことで、もともと住んでいた民族との対立が人工的に生まれることになってしまった。
北アフリカではオスマン帝国の支配地域が狭くなっていますね。
―そうだね。
エジプト(注:ムハンマド・アリー朝)はオスマン帝国と戦って、事実上の独立を勝ち取り、南のスーダンまで支配下におさめているよ。
また、フランスは地中海を挟んで反対側のアルジェリアを植民地化している。国内の不満をそらすために王様(注:シャルル10世)がやったんだ。現在のフランスにアルジェリア系の移民が多数いるのは、これがルーツだ。
ヨーロッパ諸国が工業化に進出したのは、こうやって国外に進出していったことも影響していそうですね。
―そうだね。「工業化していない地域」に、「工業化により開発された最新鋭の軍事力」を背景に進出できたことが大きいね。
今までは感染症が心配だったアフリカにも、マラリアの特効薬(注:キニーネ)の開発によって進出が容易となるし、連発の可能な銃(注:機関銃)の原型も発明されている。
これによりアフリカはますます、天然ゴム、綿花、アブラヤシ、落花生、銅、コーヒーなどの「お金になる農産物や鉱物」の供給先となっていくことになる。
この時点ではまだ内陸部は「謎」だったわけだけどね。
また、他の地域との接触がほとんどなかったオーストラリアやニュージーランドへの進出も一層すすむ。
スペインから「羊毛」に特化した羊(注:メリノ種)が導入されるや、当初は囚人の島流しとして利用されていたオーストラリアに、政府が補助金を出して移住を奨励するようになったんだ。
先住民(注:アボリジニー)は、イギリス人の持ち込んだ感染症や殺害によって人口を減らし、オーストラリアやニュージーランドは例外的に「白人比率がきわめて高い植民地」として特異な発達を遂げていくこととなる。
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