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11.3.3 アメリカ合衆国の重工業化と大国化 世界史の教科書を最初から最後まで


南北戦争に勝利した北部主導のアメリカ合衆国政府は、この戦いを「南部の反逆」として処理。
二度と南部が北部に挑戦しないように、南部のステイト(州)の国家組織を根本的に “インストール” しなおそうとした。
この再インストール時代のことを「再建期」という。


主導したのは北部の共和党。「アメリカ合衆国」の連邦憲法が修正される形で、奴隷制は正式に廃止される。
解放されたアフリカ系の黒人たちには選挙で投票する権利が与えられた。

しかし、南部から連邦軍が撤退すると、1890年頃から州の法などにより黒人の投票権に制限がかけられるようになり、公共施設もヨーロッパ系とアフリカ系との間で差別するようになった。

白人が顔に色を塗って黒人をネタにするショーも公然とおこなわれていた



「アメリカ合衆国」全体の憲法でいくらアフリカ系の人々が市民として活動する自由が認められていたとしても、州ごとにそんなことやってたんじゃ、無意味だ。
しかも、せっかく解放されたとしても、アフリカ系の人々が農地を手にすることはなく、収穫の半分程度を地主におさめる「シェアクロッパー」(分益小作人)として貧しい生活をおくることを余儀なくされた。

一方、奴隷を手放したことで大農園を営むことができなくなった元・農場主(プランター)は、細々とした土地を持つヨーロッパ系の農民や、新たに工場を建設して事業をおこした企業家(産業資本家)らとともに、南部の政治の主導権を握ろうと「民主党」に結集。
北部を地盤とする共和党に対抗した。

なお、もともと南軍に所属していた兵士など一部のヨーロッパ系の人々は、「黒人をぶっつぶすための暴力団」(KKK(ケーケーケー)、クー=クラックス=クラン)を創設。
アフリカ系白人へのリンチなどの暴力を公然と行なった。

これが南北戦争後のアメリカ合衆国の姿だ。




しかし、戦争前と変化したところもある。
「南」と「北」に加え、ますます「西」の占める比重が大きくなったことだ。

その理由は南北戦争中のリンカン大統領の施策にある。
大統領は、農民たちに160エーカー(だいたい65ヘクタール)の西部の未開拓地を貸し与え、自分で5年間耕したら、無償でその農地を与えるとするホームステッド法(1862年)を制定していたのだ。
がんばれば広大な土地が手に入るということで、応募者が殺到した。


1860年前後には、西部のネヴァダやコロラドで、金や銀の採掘がスタート。
さらに鉄条網を張り巡らせ、牛を飼ったり小麦を生産するビジネスもさかんになった。
ここで生産された牛肉や小麦粉は、東部の市場に輸送された。

東部にとって西部がなくてはならないものとして発展していくと、やがて東部と西部を結ぶ通信機関や交通機関の整備もすすむ。
有線電信が開通したのにつづいて、1869年には最初の大陸横断鉄道も開通しているよ。

こうして「西部」が開拓されたことで、1890年の国勢調査では「アメリカには、もう開拓するべき新しい土地はない」という宣言が出された。
これを「フロンティアの消滅」というよ。

これまで西へ、西へと突き進んできたアメリカにとって、フロンティアの消滅は、ある意味アメリカ史の第一章の”終わり”を意味するのではないか。
そう論じたのが、下のターナーによる「アメリカ合衆国史におけるフロンティアの意義」だ。

史料 フレデリック・ジャクソン・ターナー「アメリカ合衆国史におけるフロンティアの意義」(1893年7月12日)

1890年の国勢調査に関して国勢調査局長が発表した最近の報告には、以下のような重要なことが書かれている。「1880年に至るまで、この国には開拓を待つ辺境としてのフロンティアがあった。しかし現在では開拓植民された地域が次々と未開拓の地域を侵食し、両者の境界となるような一本のフロンティアの線というものは消滅してしまった。……」この簡潔な公式声明は、ある偉大な歴史的運動の終わりを告げるものである。[…]
[…]アメリカ大陸の発見から4世紀、憲法の施政下で1世紀が経った現在、フロンティアは消滅してしまい、[…]合衆国の第1期が終わりを遂げたのである。

歴史学研究会編『世界史史料7』岩波書店


もちろん「フロンティアが消滅した」というのは、あくまでアメリカ合衆国にとっての発想だ。

開拓された場所に、もともと住んでいたのは先住民のインディアン諸民族。
必死の抵抗もむなしく、アメリカ合衆国の人々の攻撃に屈服せざるをえなかった。



大西洋から太平洋まで拡大したアメリカ合衆国は、幸運にも石炭や原油、鉄鉱石にめぐまれ、鉄鋼をつくったり石油をつくったりする重工業がめちゃめちゃさかんになった。
天然資源に恵まれていたことで、19世紀末には、イギリスやドイツを抜き、工業生産世界一に。

鉄鋼や石油をつくる工場を建てるには、莫大な資本を投じる必要があるから、そんじょそこらの普通の人が手を出せるような産業じゃない。
しだいに一部の独占企業が、生産を牛耳るようになっていった。


そうなると、さまざまな問題が発生するようになる。
ある業界に数えるほどの会社しかない場合、どうしても“殿様商売”になりがち。
ライバル会社がいないので、値段を下げたり品質を良くしたりする競争も起きにくい。
たとえば「鉄道」の会社も一部の会社が独占していた産業のひとつ。
高い鉄道運賃や独占企業に対して反対する農民による運動も盛り上がっていった。
この運動を「ポピュリズム」というよ。

いっぽう、大企業にこき使われる労働者が、団結して雇っている人に待遇の改善を交渉するためのグループである「労働組合」(アメリカ労働総同盟)も1886年に創設されている。
しかし組合のメンバーになれたのは、長年働き腕を磨いた「熟練労働者」のみ。

低い給料でこき使われた大多数の労働者たちは、東ヨーロッパや南ヨーロッパから移り住んできた移民が多くを占めていた。
とくに、19世紀中頃の「大飢饉」(ジャガイモ飢饉)を逃れてきたアイルランド人、

いわれのない激しい弾圧(ポグロム)を避けてロシア帝国方面から逃げてきたユダヤ人や、


「統一」運動による政治の混乱を避けて来たドイツ人や

イタリア人

が多かった。


もともとイングランド人のカルヴァン派の多かったアメリカ合衆国に、さまざまなルーツを持つ人々がやって来るようになったのだ。


当時の人々の中には、「さまざまなルーツを持つ人々が混ざり合う、これこそがアメリカの良さだ!」(人種のるつぼ論)とプラスの評価をする人もいたけれど、いっぽうで「新しい労働者が入ってくると、俺たちの仕事がなくなる!」というマイナスの評価をする人も増えていく。


資料 反ユダヤ主義
しかし民衆もユダヤ人をいじめた。多様な移民系諸集団がひしめくスラム地区では、エスニック間の対立感情が高まり、移民たちはすぐ近くにいる者たちを敵視した。「ユダヤ人いじめ」は日常茶飯事だったのである。街路では与太者たちがユダヤ人行商人をあざけり、投石し、髭を引っ張った。顎髭を引っ張るというのがもっとも普通にみられる光景であった。1899年ブルックリンの14のユダヤ人団体は抗議して述べた。「ユダヤ人は殴られるという危険をおかすことなしには街路にでてゆくことができない」と。

野村達朗『ユダヤ移民のニューヨーク』山川出版社、1995年、108頁


史料 ノウ・ナッシング(移民排斥をかかげる新興政党)の綱領(1856年)
・アメリカ人がアメリカを統制すること。この目的を達成するために…アメリカ生まれの市民がそれ以外の者に優先して選ばれるべきである。
・帰化法を制定し、市民権の獲得に不可欠な条件として、連続して21年間のアメリカ合衆国における居住を要求し、貧窮者や犯罪歴を有する者がこの国に到来することを禁止すること。

歴史学研究会編『世界史史料7』


それが如実に現れたのは、19世紀後半に中国人移民の人口が増加したときのことだった。
「中国人は仕事を奪う」
「中国人は追い出すべきだ」
こうした世論に押されて1882年には中国人の移民が禁止された


史料 排華移民法(1882年)
中国人労働者のアメリカ合衆国への流入が、領域内の土地において守られるべき秩序を危険にさらしているとのアメリカ合衆国政府の判断により、召集された連邦議会の上院および下院は、以下の法律を定める。……
第1条 本法律の制定の90日後以降、また、本法律が10年後に失効するまでの間、アメリカ合衆国への中国人労働者の入国を停止する。この停止期間にあっては、いかなる中国人労働者の入国も違法であり、また、先の[法律制定の]90日後以降に入国した者がアメリカ合衆国に留まることも違法である。
第14条 これ以降、州法廷およびアメリカ合衆国法廷は、中国人に市民権を認めてはならない。本法律に抵触するすべての法律は、これにより無効にする。
第15条 本法で使われる「中国人労働者」という言葉は、熟練労働者と不熟練労働者、鉱山で雇われる中国人を意味すると解釈される。

歴史学研究会編『世界史史料7』


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一方、アメリカ合衆国と太平洋の向こう側の東アジアとの結びつきは、日増しに強まっていた。
その背景にあるのは、太平洋岸に棲息するラッコなどの毛皮の獲得や、太平洋各地に棲息するクジラの漁場の獲得。


工業化と人口増加の進んでいたアメリカ合衆国では、工業用・生活用のランプの油・製品の原料として、クジラへの注目が集まっていたのだ。


1853年・1854年には、ペリー提督が派遣され、大砲を積んだ蒸気船で日本の江戸幕府を脅し、1854年には日本と日米和親条約を結び「開国」させることに成功。


ちょうどヨーロッパではクリミア戦争(1853〜1856年)という“大戦争”が起き、アジアに対する対応が後手後手になっているときを狙ったものだった。

また、1867年には北アメリカの太平洋岸を南下しようとしていたロシアをブロックするため、アラスカを買収
アメリカ合衆国の「太平洋」への進出は着々と進んでいったのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊