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ニッポンの世界史【第3回】世界史の「氾濫」

「教科世界史」は、なぜ暗記地獄化したか?


 
前回みたように、「科目」としての世界史は、戦後まもなくの混乱期に、学問的に深い議論が交わされることなく誕生したものでした。

 そもそも学問としての世界史自体、未確立だったこともありますが、その輪郭が不確かであったからこそ、文部省の教科書調査官や歴史学者、教員、予備校講師、それに作家に至るまで、さまざまな人々の手が加わり変化し続ける余地ができた面というもあるでしょう(注1)。

 とくに戦後まもなくは、教員がみずから世界史という科目を通して、新しい社会をつくろうという熱気にあふれていた時代です。東洋史・西洋史・日本史の研究者と高校教員の相互作用のなかで、科目世界史の内容が鍛え上げられていくことになりました。

 ところがそんな努力もむなしく、先述のとおり、世界史で「覚えるべき」とされる用語はやがてインフレをおこし、1960年代には「暗記地獄」との謗(そし)りをうけるようになります
 歴史をどう学ぶかをめぐっては、「歴史は ”流れ"だ」派と「"暗記"だ」派がしばしば対立しますが、歴史をたどるとみえてくるのは、それとは異なる文脈です。
 そのなりゆきをたどっていくことにします。
 

中村薫「世界史教科書における用語数増加の歴史的経過と今後への提言 ―歴史系用語精選問題と関連して」『歴史教育史研究』第16号、2018、28~54 頁を参考に筆者が作成


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「世界史の氾濫」


 見切り発車ではじまった世界史の教科書が刊行されたのは、ようやく1952年になってからのこと。
 西洋史や東洋史の教科書(たとえば『西洋の歴史(1)』1947年発行)もありましたが、あくまでバラバラのものですから、世界史とはいえません。
 
 そこで多くの教員や生徒を救ったのは、一般書として数多く発行された世界史に関する読み物でした

 戦前の教科書は、ふつう学界の泰斗が執筆するものでしたが、当時刊行された世界史の読み物には、一般の教員が関わるものもありました。新たな商機を見出す出版社も前のめりで、世界史関連の一般書が、雨後の筍のように矢継ぎ早に刊行されます。

 「世界史の氾濫」とよばれるこの状況について、成瀬治は『世界史の意識と理論』(岩波書店、1977年)で次のように批判的に述べています。

 「1949年から1951年ごろにかけて、「世界史概説」とか「世界史読本」とか銘うった書物がつぎつぎと出版され、巷に氾濫するようになったけれども、それらはおおむね、旧来の「三学科制」の枠内で専門研究に従事してきた東洋史家と西洋史家とが執筆した概説を、一定の比率で混ぜ合わせ、それに先史時代と現代世界の動向をつけ加えたというかたちのものであり、しっかりとした方法論をふまえ、真に有機的な構成をもつ世界史叙述とは言えなかったのである。」


 とはいえ、1952年の検定教科書の登場以前に発行された一般書にはまったく価値がないとみなすのも間違いです。
 むしろ、この時期にこれらの試みがなかったら、現在の科目世界史の内容は、もっと違ったものとなっていたかもしれません(注2)。

 世界史教科書すらなかった時代にあって、どのように内容を構成すれば「世界史」が成り立つのか?
  この頃刊行された一般書は、果たしてどのような章構成によって、世界史を描こうとしていたのでしょうか?
 準教科書の世界をのぞいてみることにしましょう。


***


東洋か、西洋か?—それが問題だ


 

 先述の茨木智志の分類をもとに整理すると、以下のようなタイプに分けることができます。

1 東洋史と西洋史を分けたもの
 
たとえば西洋史と東洋史を分冊にして、完全に別物としてあるもの

2 世界史を一つのものとしてまとめたもの
(1)西洋史中心型
:極度に西洋史の立場を強調するもの 
  例)今井登志喜監修『世界史概説』

(2)融合型
( ⅰ )西洋史中心型:西洋史を主体として時代を区分し、西洋史の区分に同時代の東洋史の内容を単に組み込んだもの
 例)東京大学文学部史学会編『世界史概観』、尾鍋輝彦『100ページの世界史』

( ⅱ )②東洋史尊重型:西洋史を主体に西洋史と東洋史を組み合わせながらも、東洋史も重視したもの
 例)東京文理科大学内世界史研究会編『新綜合世界史』

参考:茨木、上掲論文、2010。区分の名称は筆者による。

 1952年までの間は教科書だけでなく、世界史の学習指導要領も存在しませんでした。
 ですから、教員が参考にできるのは、これら準教科書に加え、すでに示されていた学習指導要領の西洋史編と東洋史編(試案、1947(昭和22)年)です。
 ここで一応、学習指導要領の西洋史編と東洋史編の構成を機械的に両者を合体させた次の流れ図を確認してみてください。


詳細は、https://erid.nier.go.jp/files/COFS/s22ejs5/index.htm (西洋史編)と、https://erid.nier.go.jp/files/COFS/s22ejs3/index.htm (東洋史編)を参照してください。項目が立てられているわけではないので、この図は指導要領の内容から再構成したものです。

 どうでしょう。なんとなく「世界史」っぽくなったような気がします。が、やはり機械的にくっつけただけですから、細かいところをみると、やはり気になるところもありますね。

 注目すべきポイントは、たとえば次のようなところでしょうか。

 ・古代オリエントは東洋史ではなく西洋史の側にある。
 ・古代オリエントは、西洋の「2 古典文明」の全身として位置付けられる。
 ・西洋史は、古典文明→中世西欧世界(4世紀〜15世紀末)→近世前期(16世紀初頭〜18世紀)→近世後期(18世紀末〜19世紀末)→帝国主義〜現代(1880年代〜)の順に時代区分されている。
 ・東洋史は、古代文化の成立(〜漢代)→東洋の文化の拡充(三国〜唐代+インド+西アジア)→庶民生活の向上(宋代・遼・蒙古)→東洋の老成(明清+イスラム世界)→西洋の東漸の順に時代区分されている。
 ・東洋史は、内容のほとんどが中国史。「東洋の文化の拡充」の箇所で、インドは仏教・ヒンズー教の拡大、西アジアはマホメットのアラビア人の統一が扱われ、「東洋の老成」でチムール朝、ムガール帝国、オスマン・トルコがあるだけ。
 ・東洋の近代化では、日本・中国・インド等の近代化が比較されている。
 ・東洋が主体となった東西交流としては、唐代の東西交通の活発化と、蒙古(モンゴル帝国)による東西交通の復活の2つがある。
 その後は、近世前期に西洋が東漸(東に拡大)し、西が東を圧倒する運びとなる。

 
 このように、東洋史と西洋史を単純に組み合わせれば、なんとなく「世界史」っぽいものはできあがるわけですね。


『世界史概説』の構成:西洋史中心の世界史


 このうち、意図のいかんにかかわらず(1)西洋史を中心に世界史を一つにまとめようとした例として、西洋史を専門とする今井登志喜(1886〜1950)監修の『世界史概説』をとりあげます。
 どういう構成になっているか、図に表したものが次の画像です

 

「1〜9」までは上巻、「前篇」「後篇」は下巻

 内容のほとんどが西洋史分野で占められていて、東洋が登場するのは西洋と接触するときに限られます。まさにオマケのような扱いです。

 古代オリエントについては、「2 古代東方」として扱われていますが、これもまた西洋側に配置された「3 ギリシア」「4 ローマ」と比べる視点が強いものです。
 実際、「2 古代東方」は、このように締めくくられています。

オリエントの専制国家には自由がなかった。エジプト、メソポタミアに高度の文化が存在したにも拘らず、学問を発達させなかったのはそのためである。われわれは、今、自由を愛するギリシア人の歴史に赴こうとしている。

上掲、43頁

 「イスラム教」「サラセン文化」(当時はラテン語のサラケニ(Saraceni)に由来するヨーロッパ人が「イスラム教」を指す名称が用いられていた)の情報も、十字軍の「敵」として現れるにすぎません。

 「9 東西文化の交流」という項目もありますが、中央ユーラシアの遊牧民には「東西文化交流の媒介者」(9-1.の章名に使用)という位置付けしか扱われていません。

 下巻の前篇には「市民社会の成立」というタイトルがついていますが、それと対比するようにして、「アジア的社会」「回教社会」がいかに遅れていたのか、進歩のない停滞した社会であったかということが ”論証” されていきます。そして「7 地理上の発見」の項目は、第1節 マルコ・ポーロ、第2節 コロンブス、第3節 マジェラン、第4節 コルテスとピサロとなっていて、停滞したアジアは、彼ら探検者によって「発見」される受け身の対象として描かれます。

 仏教研究の知見からインドや西域の専門家もいたとはいえ、東洋史といえばほとんど中国史と同義であった時代です。ましてイスラムの研究を西洋史や東洋史と接続することすら、一部の研究者を除いては、なかなか考えにくい状況でありました。

 そんな東洋史を西洋史と合わせようとしても、西洋史を主体として時代を区分し、これに同時代の東洋史の内容を機械的に入れ込んでいくタイプ(上記の2ー(2)ー(ⅰ)西洋史中心型)にならざるをえない。
 東洋と西洋に共通する尺度、東西を通奏するリズムをどのように立ち上げるか。これが難問だったわけです。
 
 ここで念のため、西洋中心型の融合を試みた東京大学文学部史学会編『世界史概観』(1949年)の構成をみてみましょう。主体的な学習(当時はグループ・システムなどと呼ばれていました)に困り、往年の講義型をなつかしむ当時の教員に人気を博した準教科書で、2019年には復刻版が山川出版社から刊行されています。

(続く)



(注1)戦後に誕生したのはあくまで「科目」としての世界史であって、世界史の構想自体は戦前からありました。そもそも世界史は、西洋のキリスト教会における普遍史と、それを構造的にうけつぐ一元的な世界史に根をもちますが、その多くは西洋史に中心を置いた叙述にすぎませんでした。

 こういった西洋中心的な歴史叙述に異を唱える動きは、すでに戦前から存在しました。たとえば京都学派に数えられる田辺元の世界史観。さらに戦時中の『大東亜史』編纂(未完)に関与した宮崎市定による、近世はイスラム世界、宋代中国そしてヨーロッパの順にはじまったとみる『アジア史概説』(冒頭部分を戦後に出版)も重要です。それらが戦後の「世界史」カリキュラムや世界史に対する見方に影響を与えているのではないかと考えています。こうした戦前からの連続性についても、ゆくゆく論じます。

(注2)1949〜1951年頃に刊行された教科書的な体裁をとった一般書を「準教科書」とみなした吉田寅の議論をもとに、茨木智志がこれらの傾向を分析し、「「世界史」とは何かを模索した現象」との評価を与えています(茨木智志「準教科書に見る初期の世界史教育の模索」『社会科教育論叢』47 巻、2010年、56-62ページ)。
このほかにも、同時期には大学入試向けの対策本もいくつも出版されていますが、執筆には各大学の出題担当者を含む歴史学者が関与していること多いものでした。また、児童向けの世界史(あるいは西洋史)に関する読み物も数多く発行され、たとえば成城高校の教員だった尾鍋輝彦のような「準教科書」の執筆者も、同時期に絵入りで子どもに語りかけるようなスタイルの一般書(『ぼくらの西洋史』1949)を執筆しています。

 

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