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【ニッポンの世界史】#22 「文化圏」学習の導入:1970年度学習指導要領の思惑

1970年代の世界史へ

 

 学生運動の激化と挫折で幕を閉じた1960年代。ここからはさらに歩みを1970年代にすすめ、"公式" 世界史たる学習指導要領の改訂と、それに対する多様な "非公式" 世界史の動きをおさえながら、「ニッポンの世界史」がどのように再定義されていくかを追っていきましょう。

「ニッポンの世界史」年表:1960年代



貧困の時代から選抜の時代へ


 高度成長は、日本社会を大きく変えました。

 1960年に6割を切っていた高校進学率が1970年代に9割を達成。
 熾烈をきわめる「受験戦争」勝ち抜き少数のエリートになれるかと思ったら、すでに大学進学率が約1割(1960年)から1970年代の4割弱に急上昇し、「大卒」の希少価値は急落します。
 大学の講義も旧態依然とした縦割りアカデミズムであり、現実の社会問題との距離は若者にとって途方もなく感じられました。
 これが大学紛争の遠因です。
 
 「受験戦争」が進めば進むほど、大学入試問題にも受験生をふるいおとす「選抜」の機能が必要になります。
 つまり、大学進学できるかいなかが、「貧困」の問題ではなく、選抜の「問題」すなわち個人の努力の問題へと変化していったわけです。



期待される人間像

 こうした進学実態の変化を背景として、新しい高等学校学習指導要領が改訂が1970年に告示されます。
 告示とは、実施する少し前の「予告」だと思ってください。

 改訂は、1969年9月の教育課程審議会の答申に基づいて進められました。
 そのベースとされたのは、中央教育審議会第19特別委員会の「期待される人間像」と第20特別委員会の「後期中等教育のあり方」と、2つをセットにした1966年10月31日の答申です。このときの改訂に特徴的であったのは、戦後初めて公的に「理想の人間像はこうだ」と明確に打ち出したところにあります。

 それが述べられていたのが「期待される人間像」という文書で、「正しい愛国心」や「象徴への敬愛」などが盛り込まれ、議論を呼びました。
 これを定めた第19特別委員会の主査は、あの「京都学派四天王」の一人、高坂正顕です。
 委員には経済界からは出光興産の出光佐三や松下電気工業の松下幸之助らの名前もあります(なお、策定過程では、やはり「京都学派四天王」の一人・西谷啓治大谷大学教授からの意見聴取もなされています)。
 こういうところで、戦前と戦後はつながっているのですね。

 委員会の議論の主軸はこうです。
 
 ——戦後の日本が「道徳的基準」を失ってしまった。そのせいで、若者の犯罪が増え、経済の担い手を失ってしまっている。これを改善する教育が急務だ。
 
 ここには主査をつとめた高坂の意見が強く反映されたと言われることが多いのですが、審議の過程を丹念におった田中直人によれば、各委員の意見をもれなく盛り込んでいった結果、結局は総花的な内容に着地したとみたほうがよさそうです(田中直人「中央教育審議会答申別記「期待される人間像」の再検討—中教審第十九特別委員会での審議内容の精査を通じて」『政治経済学研究論集』明治大学大学院、2022)。

 石油危機(1973年)をもってあと少しで高度経済成長が終わりを迎えようとはつゆ知らず、このような保守的な政策的意図に基づき、1970年度告示・高等学校学習指導要領はつくられていきました。



「文化圏」学習の導入: ヨーロッパ中心史観の脱却へ


 新しい学習指導要領における世界史の、注目すべき変更点は、「世界史A」「世界史B」が、再び「世界史」1科目に戻されたこと。
 そしてその構成の目玉に「文化圏」学習が盛り込まれたことでしょう。

 ここで初めて「文化圏」という言葉が「初めて登場した」とよく言われるのですが、正確に言えば、すでに1960年度学習指導要領の内容の留意点のところに「文化圏」単位の学習が勧められています。
 1960年度版の世界史A・Bに「文化圏」について村川堅太郎榎木一雄とともに書いたのは、当時文部省で教科調査官をやっていた平田嘉三(1925〜2008、のち広島大学教授)であると、平田本人が述べています。
 平田はまた、当時「多くの歴史学者や組合の人々から、「非科学的トインビー史観の導入」ときびしく批判された」とし、これらは不当な批判であるものの、トインビーを再読・再評価するきっかけとなったとも述べています(平田嘉三「トインビー『歴史の研究』」、酒井忠雄『歴史と教育』、1981、108-109頁)。



 一方、1970年度改訂版に協力委員としてたずさわった歴史教育者の吉田寅への聞き取り(茨城智志・鈴木正弘「歴史教育体験を聞く—吉田寅先生」『歴史教育史研究』6、2008年、https://juen.repo.nii.ac.jp/record/5139/files/13487973-06-04.pdf)によれば、1970年度改訂「解説」作成の中心人物は、当時文部省で教科調査官をやっていた先ほどの平田嘉三と、伊瀬仙太郎(1913〜1999、のち東京学芸大学教授)の2人だったといいます。ほかに西洋史の木村尚三郎(のちに世界史必修化のキーパーソンとなる人物です)もメンバーに名前をつらねていたものの、多忙ゆえ、平田・伊瀬の2人が主になったとのこと。

 吉田によれば、文化圏学習に関心があったのは伊瀬のほうで、「新しいものがお好きで、しかも、どんどん話がグローバルに広がっていくかたでした」と回想します。
 1972年に伊瀬は改訂に関して意識した「改善策」を次のように3点挙げています。

第一次世界大戦後の歴史を重視する。従来、最近の100年間ぐらいの歴史は、研究の対象にすべきではない、と一般にいわれてきたが、この見解はだんだんと権威を失ってきた。大戦後、交通通信機関のおどろくべき発達によって、各国間の時間的距離が著しく短縮され、この結果として、事件や事態の推移がきわめてスピーディになり、この一年間に起こった歴史事象は、1世紀前の数十年間分、十世紀前の数百年間分にも相当し、同じ尺度で時間を測定することが、歴史的にみて無意味になってきたからである。

第一次世界大戦以前の歴史は、文化圏別に国を大きくグルーピングし、横の連関にじゅうぶん留意しながら、有機的に取り扱うことが望ましい。つまり、弱小の諸民族や諸国の歴史を、個別的に雑然と取り上げるのではなく、共通の正確を基底に踏まえながら、系統的に取り扱うことができるからである。ことに、南北問題の中心となるイスラム文化圏においては、アジア・アフリカ・ヨーロッパに共通するイスラム文化を軸として、体系的に取り扱うことができる()。

文化交流の歴史を大きく取り上げる。この分野の研究が、またじゅうぶんに熟していないため、文化交流を軸として世界史を構成することは、現段階では無理であるが、将来にわたり不可能なわけではない。これからの大きな課題として、意欲的に取り組むことが必要である。ことに、上述のような協調史観を内容的に裏づけるうえからいって、この分野の開拓はきわめて重要な意味をもっている。

前川貞次郎・木村尚三郎・平田嘉三編『双書 新しい世界史教育1』明治図書出版、1972、96-97頁

 ここで伊瀬のいう「協調史観」とは「対立史観」の反対語のことで、中国西域経営の研究を踏まえ、遊牧民と農耕民の相互依存性を「協調」の例として挙げています。
 当時はデタントと呼ばれる東西冷戦の緊張緩和が進んだ時期にあたり、「協調」の言葉にはそうした時代の気分もさしこまれているといえましょう。

 他方、平田も上記のようにトインビーの文明史に関心があり、本人が述べるようにトインビーの影響を受けたイギリスの歴史学者ジェフリー・バラクラフ(1908〜84)の世界史構想とあわせて、「文化圏」学習導入に影響を与えたと考えて良いでしょう。バラクラフはイギリスの中世史家ですが、西欧中心史観から脱却した世界史を構想した人で、いまはあまり読まれなくなってしまった『転換期の歴史』(1955)は、1990年代頃までの歴史教育者にも大きな影響を与えた著作です。


 導入の経緯の詳細には不明な点もありますが、こうして見てみると、「文化圏」を導入した意図は、トインビーやバラクラフの世界史構想にも影響を受けながら、イスラム世界や東アジアをヨーロッパに片を並べる一つの文化圏として”格上げ”することで、ひとまずヨーロッパ中心史観から脱却した世界史を構想させようとすることにあったと考えることができそうです。

 しかし、それだけではありません。
 「文化圏」学習の導入には、もっと大きな、「ニッポンの世界史」の再定義をめぐる転換をよみとることができるのです。

(続く)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊