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父親が死んだ話

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あと特定されそうなところとか所々脚色を入れています。

2023年、大学3年の半分が終わった。明日から、というか今日から後期の授業が始まった。この半年はすごい怒涛だった。父親が死に、サークル活動が増え、新しいサークルも並行で作り、今は就活とどこに出すかもわからない脚本を書いている。

まず父親が死んだ。結構前からガンで、最初は咽頭がんだった。ステージ2で放射線治療で完治させた。それから一年後に遠隔転移という形で再発した。見つかった時にはステージ4だったが、ノーベル賞を獲ったオブジーボという治療薬が偶然に効いたことで、普通に日常生活は出来ていた。勤めていた会社がテレワークを推奨してくれるいい会社だったこともあり、普通に仕事していたし、昨年まで普通に出張とかゴルフにも行っていた。ただおととしくらいから徐々に薬が効かなくなり、抗がん剤をいくつか試した。正直僕は最初から強い抗がん剤を使うべきだと言ったが、父は痛みを恐れ、一段階弱いのから始めた。ただ効果はなく、強いのに変えた。これも効果がなく、結果的に昨年末には手立てがなくなっていた。

思えば最初にガンが発覚した時も痛みを恐れ、近くの病院を蹴って、あえて放射線治療をやっている病院にしていた。医学的知識もないので、断言はできないが、あの時あのまま近くの病院で治療していたら遠隔転移はなかったんじゃないか?とか、あの時強い抗がん剤を頑なに薦めていれば良くなっていたのではないか?とかまぁこれだけじゃないけど、数えきれないほど悔やんだ。母親とその話を100万回はしたと思う(割とガチで)

ただそんな我々の後悔はよそに本人はめちゃくちゃ生きる気力があって、なんか死ぬ間際はガンと共存できる未来を想像して車を買っていた。「そんなわけないだろ、納車の頃にはもう死んでるだろ」と母親と笑うしかなかった。晩年は基本在宅で、2週間に1回抗がん剤を入れに通院する生活をしていた。主治医も生きる気力に満ち溢れてしまっている父を見て、もう何も言えなかったと思う。「緩和ケア」という現実、「自分が死ぬということ」ととにかく向き合いたくない父親はとにかく未来の話をしていた。「モーちゃん(飼い犬)連れて旅行に行くんだ!」とか、「夏には車が納車するから楽しみだ」とかとにかく未来の話をした。こちらとしてはただ笑うしかなくなっていた。

母親や兄貴の運転だが、靴を買いに行ったり、掃除機を買いに行ったりとか、最末期がん患者とは到底思えないくらい元気だった。しかし3月くらいに腸閉塞(排便をする力がないことに伴うもの)で倒れ、本人の希望で救急車を呼んだ。たまたま僕しか家にいなかったので、僕が対応した。こんなこと言うのも思うのもなんだが、基礎疾患持ち、病院通い21年の僕としてはこれは腕の見せ所だと感じてしまい、気が動転することなくあまりにも鮮やかな救急車の呼び方だったと思う。患者家族史上いちばん救急隊と連携プレーが取れていた。父親はどこまで知っていたのか定かではないが、母親と夜中に父親の病状について話し合っていたおかげで、病状についてはマジで完璧に把握していた。救急車の中で苦しむ父親に「完璧」と褒められた。

そうして父親は入院した。母親があとから合流し、帰りの車の中で、「これはもう家に帰ってこないな」と話した。この翌週から兄貴が就職に伴い引っ越し。僕も単発で地方に10日弱バイトに行くことが決まっており、兄弟共々東京からいなくなる。こんな時に死なれたら本当にヤバいと思った。東京に帰ってきたら父親は死んでるかもしれないと思いながら、新幹線に乗った記憶がある。ただ予想外に本人は元気で、普通にLINEが送られてくるほどだった。正直安心した。この頃くらいからガンで亡くなった人のドキュメンタリーをやたら観るようになった。すごい時はYouTubeで15本くらい観た。多分YouTubeに上がってるそれ系のニュース番組の特集は全部制覇したと思う。また逸見政孝や今井雅之の会見を観て、なんとなく心の準備をした。逸見政孝の会見は3回観たし、逸見政孝が死んだ時のテレビとか、違法でYouTubeに上がってる逸見政孝のやつは多分ほとんど観た。

なんせガンと共存して生きていく未来を想像していたので、リハビリをして退院しようとしていた。緩和ケア病棟に移ることを頑なに拒否し、絶対に家に帰ってくるんだと言っていた。ただこちらとしては最末期ガン患者の面倒は見切れない、父親を亡くしている友人に相談したこともあるが、このまま退院しないほうがいいとの見解を貰い、それを母親に強く伝えた。父親には大変申し訳ないが、介護はできないと思った。父親どころか我々も死んでしまうと思ったから入院を継続させた。

僕は週に一度見舞いに行った。一週間ごとで痩せて、声が出なくなり、力がなくなり、認知症の初期症状のようにボケていった。見舞いに行くと最初の一言は絶対「髪染めた?」だった。その度に「色が落ちているだけだよ」と返した。その時の僕は淡々と「こうして人は死んでいくのか」と思った。祖父が8年前にガンで亡くなっているが、その時と状況を重ね、「おじいちゃんのあの頃くらいだよね今」という話を母親とした。桜が散る頃まで持たないかもしれないと思っていたが、目に見えている衰えとは対照的に本人はとにかく共存できる未来を想像していたので、気合いはあった。本人の気合いで、気づいたら桜が散り、5月に差し掛かりそうになっていた。

5月頭に父親の面会へ行った。叔父を連れて。叔父は父親より9個上で、一年以上会ってなかった。父親が兄(叔父)や母親(つまり僕の祖母)に自らの醜態を晒したくなく、会うのを拒否した。ただ様子を見て、こりゃ会わせとかなきゃマズいと感じ、僕が叔父に連絡をとった。久々に面会させたとき、明らかなショックを受けていた。まぁそりゃそうだろうな。「誰だが分からなかった」とエレベーターで僕に言った。帰り際、兄弟は謎に握手を交わし、「また来るから」と言い残して帰った。それが僕と父親の最後の対面だった。

ようやく緩和ケアに行くことを決め、病棟を移動する準備をしていた。「来週から緩和だ。緩和に行ったら面会時間が制限かからなくなるし、大学終わりに会いに行けるな」と思っていたが、それが実現することはなかった。たまたまその日の僕はバイトに行っていたのだが、その最中に亡くなった。母親から「病院から電話がかかってきたから行くことになった」と連絡があり、少し調子が悪いだけかなと思いつつ、どこかでヤバいかもと覚悟した。ただ祖父が亡くなった時は危篤から臨終まで12時間かかったこともあり、持つだろうと思っていた。「夜中に爪を切ると親の死に目に会えない」と意味わからない迷信を発していたこともあり、そんな迷信ねぇよ絶対看取ってやる!と今年の初頭くらいから勝手に一人で気合いを入れていたが、結局それは叶わず、第一報から1時間ほどで亡くなった。あっけなく死んでいった。人ってこんなにあっけなく死ぬんだなと思った。家族で唯一看取ることが出来なかった。ちなみに地方に就職していた兄貴はたまたまGWで東京にいたので、看取ることが出来た。バイトは、途中で抜けられる雰囲気じゃなかったし、死んだからには急ぐ必要はないなと思い、バイトの空気がひと段落した段階で抜けさせてもらった。バ先から病院までのタクシーの中は正直覚えてない、というか走馬灯のように思い出が蘇ってきた。走馬灯って本当にあるんだなと思った。サムネはそんなタクシーの中から撮った写真です。

本当に急ぐ必要は無くて、むしろバイトきちんと全うしてから来ても間に合ったなと思った。終活の2割くらいしか出来ずに死んだことで、葬儀をどうするかとか全く決めてなくて、生前に本人が調達していた資料を元に手配した。葬儀をどうするかは全く決めてなかったが、生前に申し込むと割引が効く権利を何故か持っていたので、家族3人と叔父で、「こういうところだけきちんとしてるの何なんだ」という話をした。最終的に手配を済ませて、病院を出たのは深夜25時くらいだった。葬儀屋が来るまで父親の遺体の前で思い出話に花を咲かせたし、なんなら関係ない話の方が多かった。秘密主義の父親の話を叔父にすると、「え?秘密主義なの?」と初見のリアクションをした。それすらも秘密なんかい。つくづく不謹慎な家族だなと思ったけど、よくよく考えれば僕がいちばん不謹慎だった。父親が亡くなったことを背景に、叔父と、父親の父親、つまり僕から見て祖父の話をした。僕は父方の祖父と会ったことがない。祖父は56で死んでいる。父親が17の時だったらしい。父親が亡くなる少し前に母親から「入院する間際に聞かされたんだけど…」と切り出され、祖父の話をされた。

それまで祖父は「アル中で死んだ」と聞かされていて、それがずっと本当の事だと思っていたが、それはめちゃくちゃ嘘で、本当は「不審死」だった。川で遺体となり発見されたらしい。殺されたのか、自殺なのか、誤って転落したのか、未だにその死因は分からずじまいだと。その話を叔父に聞いてみたらやはり本当だった。「ドラマみたいな話だろ?」と叔父は笑ったが、本当にドラマのような話だなと思った。湊かなえが書きそうだし、TBSでドラマ化しそうな話だなと思った。

病院の帰りの車の中はひたすら「母親が車を吹かして燃費を悪化させてることに父親が文句言ってた」話だけでめちゃくちゃ盛り上がった。全く意識してなかったが、我々兄弟はめちゃくちゃ仲が悪く、8年くらいほぼまともに会話をしなかったが、いつの間にかしっかり会話していた。

家に帰るとまず3人で遺影になる写真を探した。なんかイマイチだな、これもダメだな、とデジカメを発掘してはデータを転送して見た。父親は55で自撮り大好きなので、スマホにあるのでは?と思ったが、ロックが解除できない。終活ノートみたいなやつに肝心のスマホのロック番号がない。おいどこまで秘密主義なんだ。スマホのロック番号は真っ先に書けよ。そう思いながら色んなパスワードから理系の兄貴が使われている桁の組み合わせや法則性を発見し、ロック解除に成功した。「俺の仕事は終わった」「インセンティブが欲しい」と豪語し始めて正直かなりウザかったが、同時にさすがだなと思った。僕はそこの脳が本当に欠落してるので、僕には到底無理だなと思った。

そんな作業をしていたら気づいたら朝5時になったので寝た。翌日は葬儀屋との打ち合わせがあった。母と兄が同席していたのもあり、ほぼ決めてくれた。葬儀屋の人がすごく優しかった。「本当はダメなんですが…」を枕詞に色んなサービスを付けてくれた。叔父の透析があったり、葬儀屋の都合などで、葬儀はかなり余裕を持った日程にさせてもらった。

葬儀当日、予想よりかなり多くの人が来た。父方の祖母(父親の母親)は体調が悪く施設からドクターストップがかかり、来れなかったのが悲しかったし、ちょっと可哀想だった。そんな中、お坊さんが白いレクサスで現れてビックリした。そんな儲かっているのか?と思った。また母方の叔父(母親の兄貴)が新しい電気自動車のベンツで来た。うちの国産車が大変ショボく感じるから2台とも並列に停めないでくれと思った。そんなことより「家族葬の意味わかってる?」と思うくらい人が来た。どこからか情報が漏れたのか何なのか父親の高校の部活の集団も一斉に来た。お線香を上げた後、ひとりひとり「○○社の○○です。生前お仕事の方でお世話になりました」的な挨拶をされたが、秘密主義なゆえ、我々はマジで父親の仕事仲間や友人関係が分からず、ずっと「アッ、エット、ハイ…ありがとうございました……」の連発だった。葬儀が終わり、アフタートークみたいな時間があったのだが、兄貴がその父親の高校の部活の集団を回していてめちゃくちゃ嫉妬した。それが長男の務めだし、兄貴の方がMC裁きが上手いが、こちとら『あすノズBLOOM』で演者側もMC側も経験している。かなり悔しかったし、めちゃくちゃ嫉妬した。本人も帰宅後「手応えを感じた」と自画自賛していて、尚更悔しかった。
そんなMCさばきをしている中、僕は母方の叔父と祖母、父方の叔父の相手をしていた。うちの母方の祖母はとにかく喋る。御年90とは思えない古舘伊知郎くらいのマシンガントークをかまされるので、とても操縦ができない。電話も長いと子機の電池が切れるまで話し続ける老化を知らない90歳。「アンタ(僕)、髪黒くなったって聞いてたけど全然黒じゃないわね!」「(母方の叔父が買った)高いベンツ、あれいくらすんのよ!」など止まらぬ父親とは関係ないマシンガントークの大連投に、両方の叔父たちと一緒にタジタジになるしかなかった。父方の叔父が「止まらないよ…」と嘆いていて、苦笑いするしか無かった。

そんなこんなで出棺の時が来た。葬儀屋から火葬場までそう遠くないが、霊柩車、お坊さんのレクサス、我々の車、母方の叔父のベンツの4台で走った。途中、母親の希望で家を通過。霊柩車が曲がった瞬間に「これ家寄るな」と兄貴がすぐ確信し、「逸見政孝の最期みたいだな」と僕が言い、「逸見政孝スタイルか」となんか盛り上がった。兄貴が逸見政孝を知っていて良かった。飼い犬が車に気づいてワンチャン気づいて外を見てくれるのかと期待したが、そんな素振りはなく見事に空振りした。最近まで車を3台所有していたのだが、我々の車がたまたま父親が生前に独断で勝手に買った3台目の車だったので、兄貴が「お父さんにあなたが買った車だぞって見せつけてやる」と急に変なことを言い出して、車線変更して、お坊さんのレクサスを追い抜き、霊柩車と並走した。この光景が霊柩車とカーチェイスを始めている感じに見えて、笑いが止まらなかった。今年面白かったことNo.2くらいだと思う。

そんなこんなで火葬が終わり骨を持って帰宅へ。遺骨というより骨壷が重すぎる。ほぼ壺の重さだろ知ってる。帰りにすき家を買って家族で帰宅。父親は俗に言う「無言の帰宅」となった。火葬場では母方の祖母がここで書くのもはばかられるくらい最悪な不謹慎トークをかましてしまったのでここには記載しない。"古舘伊知郎系おばあ"の操縦はやはり出来ないとここでも痛感したのだった。

あれから4ヶ月経過してもこの頃の記憶ってやはり鮮明だなと書いていて思った。まだ4ヶ月前なのか、めちゃくちゃ昔に思える。ここまで感傷的に書いておいて、こんなこと言うのもなんだが、正直、僕は父親が好きじゃなかった。両親の性格は正直真逆で、考えた方も真逆。そのため衝突することが多かった。簡単に言うと父親が母親みたいな感じで、母親が父親みたいな感じだった。働いてるか否かとかそういうことじゃなくて性格的に。特に父親の干渉してくるところが嫌いだったし、母親のメンタルは強靭だ。自分は秘密主義のくせに息子のあれこれを知りたがるの何なんだと思った。そして僕は母親の強烈な考え方を受け継がれ、父親のメンタルの弱さを受け継いだ。兄貴はその逆だと思う。だから母親と僕がよく喋り、父親と兄貴が黙ることが多かった気がするし、喧嘩でも同じような対立をしていた。また兄弟仲も終わっていて、先述した通り、全く口を利かないことも拍車をかけ、だんだん家にいづらくなっていった。かといって学校は学校で色々あって(特に高校1年のクラス分けがハズレすぎて)とてもいづらかったが、中高一貫校が故、高校に進学する頃には完全にグループが形成され、文化部だが、部活があったことが幸いだった。同じ家庭環境が終わっている境遇を持った友達と、毎週のように新宿に集まって遊んでたし、高校時代から終電で帰ることはザラだった(補導されそうだから流石に終電で帰るようにはしていた)。我々は美味しいラーメン屋に行って、ファミレスで学校や家庭の悪口を喋っているだけの平和な会だったが、もし少しでも自分の年齢が若かったらトー横キッズになっていた可能性も正直否定できない。だから僕は『シンパイ賞』でニシダさんの親不孝エピソードを観た時は、話のベクトルは違うが、その考え方には正直かなり共感したし、その件でフォロワーさんとDMでお互い頑張りましょう的な労いもしたし、された。

話を戻すとそんなこんなで家が好きじゃなかったし、両親が喧嘩するたびに意見を求められたり、巻き添えになるのが嫌だったので、家から逃げていった。実際どこまで喧嘩が絶えないかというと、3月に父親が倒れる数日前まで喧嘩をしていたくらい。些細なことから始まり、過去のことを掘り返され、大きな爆発となって、火の粉が舞うスタイルの喧嘩だった。手が出ないだけマシではあるが、それが多い時は2日連続とかで起きるので、本当に嫌だった。僕が入院した時も、母親は父親の愚痴、父親は母親の愚痴である。なんちゅう夫婦だ。「離婚したら」と2回くらい聞いたけどそれは絶対二人とも無いようだったのが逆に感心した。

思えば家族仲も父親と関係性が悪くなっていったきっかけも、僕の中学受験で失敗したことだし、それが家族を狂わせてしまった一端だと思う。滑り止めの学校に行ったことで、中学受験をハチャメチャに大成功させた兄貴と比べられて何かと怒られた。さらに拍車をかけたのは大学受験。絶対に受からないだろうと全く期待されていなかった。そりゃ受験期にドラマ10本リアタイのツイ廃が受かるわけないと思う。ただここは結果的に第一志望に奇跡的に受かり、なんとか結果を出し、6年に及んだ中学受験の怨念説教を止めて見せた。良い話のように思えるが、ここで落ちていたらどうなってたかと思うと考えたくない。

そんなこんな経緯があり、僕は父親を執拗に避けていた。ガンになっても、僕が入院しても、大学受験で中学受験の免罪符をチャラにできても、どこか僕と父親に流域面積日本一の利根川くらいの大きな溝があった。もはや織姫と彦星くらいの感じでもあった。ただ今年に入り、いよいよ手立てがない、2023年中に死ぬのは間違い無いだろうと分かった時、僕は向き合うことを決めた。晩年の父親は会社がテレワークを推奨していたこともあり、ほぼ家にいた。忙しくてだんだんテレビを観なくなっていった僕とは反比例するようにテレビやドラマに詳しくなっていったので、そこから距離を縮めようと試みた。成人式なんて絶対行かないと心に決めていた僕が、父親の晴れ姿を見てもらうためにスーツを買って行ったし、その日は父親がとても元気だったので、2ショットを撮った。10年ぶりにそうやって溝を少しずつ埋めようとしたが、どうしてもどこか空間があって、埋まることは無かった。あっちはどう思っていたかわからないが、少なくとも僕は4ヶ月くらいでその距離感を詰めきれなかった。どうしてもぎこちなくなって、どう語彙にしたら良いのかわからないが、とにかく埋められなかった。後悔はしているが、こればかりはどうすることもできなかった。

亡くなった後、父親の日記が見つかった。いわゆる闘病記的なやつ。見つかった、というより存在は知っていたけど、秘密主義の鉄壁に憚られ、読むことが許されなかった。母も兄貴も誰も読みたがらないので、僕が7年分の闘病記を1日で読破した。正直めちゃくちゃ面白かった。夫婦喧嘩になるたび、父親は母親の強烈な語り草に言いくるめられていたが、そこで言えなかった文句や愚痴が書かれてた。僕が音読して母親に聞かせ、二人で笑った。いつ入院したのか、どんな薬を使ったのか、新しい何かを買った、僕が大学受験に受かったことや、兄貴の就職まで事細かに書かれていた。家電の買い替えまで細かく記載されていたこともあり、死後、家のことで「あれ、いつだったっけ?」ってなった時は必ず、日記を読む。もはや半分辞書みたいになっている。母親と喧嘩したことを「今日も(母親の名前)がシャウト!」と書かれていた。いや、ヤンキー漫画でもそんなこと書かないよ、プロレスじゃないんだから、と思ったが、この「シャウト」というワードが母親のドツボにハマったらしく1時間くらいこれで盛り上がった。改めて母親のメンタルの強靭さを痛感した。あんなに仲悪かった夫婦、これ父親、不倫の一個でもしてたら最高なんだけどねと思い、かなり徹底的に調べたらが、出てこなかった。真面目だなぁ

そんな話をして前半の感傷的な空気をぶち壊したところで、この話はおしまいとする。相続とかまだ墓が決まってない話とか車を売った話とかはまた今度したい。他にも振り返りたいことが沢山あるのだが、父親が死んだ話だけで、こんな長く書くとは思わなかったので、他の話もまた今度としよう


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