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日暮里

日暮里の駅を北へ出ると、長い跨線橋の橋上にぶち当たる。左手から見て山手線、京浜東北線、高崎線、東北本線、上野東京ライン、常磐線、その右手には成田方面から京成線が流れてくる。うわっ、スカイライナーや。やっぱ先代の方がリトラクタブル式のヘッドライト(というらしい。使用時以外は引っ込められるやつ)でよろしかったな――そんなことを思えば、上野方の地下からは北海道、東北、新潟、北陸へと向かう新幹線が僕がにゅるっと姿を現す。僕がもっとも東京を体感する景色である。忙しい。実に忙しい。

学研の図鑑に掲載された内容をたぐるような経験だ。線路が多い。多すぎる。それら軌道上に誌面でしか見たことのない車両が、むしろ穴が開くほど写真で見てきた車両が、これでもかこれでもかと行き交う。中央集権のありようをまざまざと見せつけられるかのようだ。衰退の一途をたどる地方都市に生まれた身からすれば、コンプレックスの一端をかきむしられる感がある。それでも、鉄道図鑑にしつこく当たる小学校時代を過ごしただけに、ある種の「答え合わせ」の快楽からは逃れられない。新幹線のみにフォーカスしてみても、手数の豊富さに面食らう。「なんやねん、あのカラバリは」「エッチな連結やな」などと、未就学児と肩を並べて興奮してしまう。男の子として最低限の責任だろう。さておき、年代的に200系が走っているさまをこの目で目撃できなかったことは、大いに悔やまれてならない。

大阪の街を歩いていて、北海道新幹線の任につくE5系をモチーフにしたヘルメットをかぶる男児を見かけたことがある。時速320キロで駆け抜ける「常盤グリーン」(というらしい)の流線型に憧れを抱くのはよくよく分かる。親が我が子の意図をくんで買い与えた構図についても、容易に想像がつく。きょうびのキッズの情報源はYouTubeなのかもしれないけれど、図鑑というメディアの中央集権性に改めて思いが至る。人口のボリュームゾーンを鑑みれば、それは当然かもしれない。とはいえ、関西人の意地みたいなものはないのか――この際、そういうねたみそねみは引っ込めておかねばなるまい。が、ひるがえってナチュラルボーン首都圏民にして、その地理的アドバンテージに無頓着な人々には「鉄分」を抜きにしても「なんでやねん」を禁じえない。

やや話が逸れるが、シティポップと呼ばれる音楽がある。その歌詞の世界では、しばしばねんごろな関係になることを前提に置いた男女のドライブシーンが描き出されるわけだが、その際に想起されるのはえてして首都高であり、東京から湘南方面へ延びる一般道ではないか。少なくとも阪和道やら京奈和道やらが入り込む余地はないように思われる。深夜の阪和道でハンドルを切る彼を横目に、ラジオから流れるなんとやら――というのはあまり締まりがよろしくない。生まれてこの方、遠足や買い物等々で世話になってきたものの、どれだけひいき目に見ても阪和道でシティポップが展開される様子というのがイメージできない。いわんや、紀ノ川筋など絶対にお呼びがかかるはずがない。そこにシティなポップはない。

またも話が逸れるが、高校時代に友人のバンドに助っ人として駆り出されて、椎名林檎のカバーをしたことがある。丸の内、池袋、後楽園。歌詞に織り込まれる地名は高校生とて耳にしたことがあった。しかし、そこにリアリティや当事者性を見出せはしない。振り返ってみれば、それぞれの土地のことすら知らずによくも無責任なことをしたものだと思う。30も半ばを迎えていずれの街も訪ねる機会ができた結果、自省の念はより強度を増した。しかし「和歌の浦サディスティック」など成り立つはずもないし、「アロチの女王」というのも妙に生活感があって格好がつかない。どことなく豚骨醤油の臭いが漂ってくる。みかんの食べすぎで指先を黄色くしているような印象がある。なんにせよ、地方分権のやり口として一番の悪手を取っている感じがある。

年の瀬を迎えて、和歌山の実家で過ごしている。やたら広々としたロードサイドに割拠するナショナルチェーンに辟易し、それらでさえ歯抜けのある状況に故郷の行く先を案じ、例によって睡眠はままならずに取り留めもないことを書き殴ってしまった。家族はみな寝ている。これから抜け駆けで年越しそばでも食べたろか、わりと本気でそんなことを考えつつ、2023年の筆を置くことにしたい。

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