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今日が雨でよかった、と思える日が少しでも人生に多くありますように


 梅雨らしいしとしと雨の日、友人と会った。
 
 長谷の大仏さまへつづくにぎやかな通り沿いに建つ小さなお寺の境内の奥まった場所に、落ち着いた雰囲気の素敵な喫茶店がある。お寺の緑にさえぎられて観光客であふれる通りからは直接見えない隠れ家みたいなその店で、午後三時に待ち合わせた。

 店内は山小屋のような温かさがあり、ちょっぴりアフリカンテイストで、それぞれのテーブルに添えられた椅子が色も形もちがって個性的。タペストリーもインテリア小物もどこか一癖あって可愛いが、がんばりすぎていないのでこちらも緊張しない。

 余談だけど、おしゃれな店とおしゃれを売りにしている店はちがう。この店は前者で、それは店主さんの生活とあくまで地続きであり、心がうごくものをひとつひとつ集めていったらこんな空間ができたというのが伝わる店だ。 

 そういう空間自体が日々発酵しているような場所にいると、こちらの心も体も休まって、ホッとする。大きなガラス張りの窓から、緑に囲まれて枯れ始めたあじさいやアガパンサスが気持ちよさそうに静かに雨に打たれているのを眺めた。

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 運動誘発性アナフィラキシーといって、私の体は暑くなるとじんましんが出て猛烈に痒くなる。
 夏は、ちょっと外に出ただけで体のなかが暖炉みたいになり、五分もしないうちに次々薪をくべられたようにカッカと燃えていく。ひじや脇や首や背中を中心にじんましんが一気に広がり、痒くて痒くてたまらない。 

 太陽の下を歩いただけでそうなるので、運動はもってのほかだ。ほんとうはダンスとかランニングとかやってみたいことはいくつかあるが、なかなかできないでいる。水泳くらいだろうか、汗をかかずと運動できるのは。

 じんましんは暑さが収まればゆっくり引いていくが、傷跡のようなものが残り、その後もしばらく痒さがつづく。最近の気候は亜熱帯地域みたいで四月から十月末くらいまでずっと暑いままだから、一年のうち三分の二はこんな状態で過ごしている。

 だから、暑い季節はなるべく昼間は外にでない。外に出たい気持ちをおさえて家でじっとしている。さいわい仕事が家でできることなので黙々と仕事をし、日が陰るのを待ってから日課の散歩にでる。たまに昼間でも外出しなければいけない仕事や用事があるときは覚悟して外にでるのだが、そのたびに、うえぇー、やっぱりだめだ、と弱音を吐く。そんな生活をもう十年ほどつづけている。

 抗アレルギー剤を飲めばじんましんが出ないので飲むという手もあるが、対処療法なので根本的にはなにも解決されないまま体内へ異物を入れつづけることへの抵抗や、薬によって感覚が麻痺してしまい、自分の体の声に自覚的でなくなることへの怖さがある。

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 長谷の喫茶店へ行ったその日、久しぶりに、いつもはまだ家にいる時間に外にでた。雨のなかを歩くのは久しぶりだった。 

 海の街らしい強めの潮風は吹いているものの、雨は比較的穏やか。サンダル履きの足先がちょっと濡れて、いつのまに染みてきた砂をじゃりじゃり足裏に感じながらも、いつも痒くなる体が全然痒くならないだけですごく心地よかった。

 気圧の影響もあって雨が降ると気持ちも体も沈むことがあるが、暑い季節に雨のなかを歩くことがこんなに癒されることだとは、知らなかった。今日が雨降りでよかったな、とサンダルの隙間から親指のつま先に落ちる雨を感じながら素直に思えたことがうれしかった。

 先月、因島で出会った元農家のおばあちゃんが言っていた。「どうして皆、雨を嫌うのでしょうか。テレビをつければ晴れを望む天気予報ばかりに聞こえます。」

 たしかにそうだ。知らず知らずのうちに、私も晴ればかりを望んでいる。日中外にでることはつらいが、できるだけ出なければいいのだし、なにより一番は、朝起きた時の気持ちが晴れているとちがう。目が覚めて晴れているとうれしい。元気がでる。お腹の底から力が湧いてくるような、生きているっていいなと思う。だから晴れが好きだ。 

 雨はそのエネルギーに待ったをかけるようなところがある気がして、どことなく不意に足止めをされるような感じや、湿気ともセットだから体が窮屈で不快感があったり、あまり良いものに思えないことが多かった。だから、人にも自然にも雨が必要だということを忘れてつい晴れのほうを望んでしまう。

 雨が降れば、速度がゆるむ。足を止めて、深呼吸もできる。夜みたいに、灯りを落として、外の音に耳を澄ませて、じっとしていてもいい時間が過ごせる。 

 雨は、そんなにがんばらなくていいよね、という自然からの声かもしれない。そんなにがんばったらこわれてしまう、崩れてしまう。じっさい最近雨が多いのは、それも激しい雨ばかりが、それはこの星がこわれかかっているからだ。人も地球も宇宙や自然という同じもののちがう顔なだけで、だから雨の声は自分自身の声でもあるんだろうな、と思う。

 「人間万事塞翁が馬」という言葉を、昔好きだった人が祖父からの教えとして大切にしていたが、今になってその言葉をすこしづつ実感している。

 雨で予定していたことができなくなったり、不快に感じたりすることもあるけど、雨は夏のあいだ私の熱を引かせてくれ、鎮静してくれ、しばしの休息をくれたりする。冬の雨はよけいに寒く感じてつらく感じるときもあるけど、その雨がなければ次の年に美味しいお米や野菜をたべられないのかもしれない。

 なにごとも単純なよしあしを決めることはできないからこそ、そのときそのときの良さを感じて、それを喜べる人でいたい。






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