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暮らしとは、どうにもならないことのなかで精一杯生きようとする力のこと


体を壊したことで「暮らし」がはじまった


2020年の春から、体質改善のために始めた自然食のいいなと思うところをできるだけ多くの人に伝えたいと思ってYoutubeチャンネルを開設した。昨年夏に鎌倉に越してきてからは、食事だけにとどまらない、自然とともにある無理のない「暮らしのようす」をお届けするようになった。

同じような「暮らし」をテーマにした動画はYoutube上に沢山ある。同じ時代を生きるほかの人たちが、どう目覚め、どうごはんの支度をし、どう食べ、どう家をととのえ、どう余暇を過ごし、どう眠るのか。そういうことに興味をもつ人がすごく多いんだなあと分かる。

「暮らし」。ここ数年、多くの人が見つめ直そうとしているもの。アトピーに始まる数多くの体調不良が起こる前のわたしには「暮らし」はなかった。言われてもまるでぴんとこない、遠い世界のできごとだった。

わたしが「暮らす」ようになったのは、体を壊したから。初めから難なく「暮らす」ことができなかったわたしは、決して望んではいなかったできごとをきっかけに「暮らす」力を少しづつ身につけていったことになる。

そもそも「暮らす」って、ちょっとだけ安易に使われ始めているようなことばである気もするけれど、一体どういうことなんだろう。医療文化人類学者の磯野真穂さんが、NHKBSの「コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ」という番組で興味深いことを仰っていた。

「暮れるって、日が昇ってから沈むまでのことをいうらしい。
 日が昇って沈むことは、私たちにはコントロールできないこと。

 だから暮らすということは、コントロールできないものの中で精一杯生き  ていこうとする、ってことなんじゃないか。」

一字一句正確ではないけれど、大体こんな内容だったと思う。なるほどなあ。わたしは重なる体調不良でコントロールできなくなった体を自覚して初めて、「暮らす」ことへ意識が向かわざるを得なくなった。わたしの頭のほうは暮らしたいと思っていなかったけれど、体のほうは暮らしたくていてもたってもいられなかったわけで、体を壊すことでわたしの意識を「暮らし」に向かわしめたんだ。

日が昇って沈むことがわたしたちの力では変えられないように、自分の思うととおりにはならなくなった体で、それでもなんとか生きていこうとするために考え、体にとって良いと思うことをおこなうようになった。それが「暮らしのはじまり」だった。

他者を大切にすることが、ほんとうの「暮らし」

「暮らすことは、他者と生きること。
 暮らすことは、ほかのひとの暮らしの小さなことを大切にしていくこと。

 ひとりひとりが暮らしを大切にすれば、
 他者への共感や想像力をもつことにつながっていく。」

磯野さんはこうも言っていた。それでいうと、体を壊す前のわたしは、今も直ったとはいいきれないけれど、今よりずっと自分本位の生き方しかしていなかった。他者への想像なんて、俳優という仕事を選んだにもかかわらず、ほとんどできていない。
俳優は自己表現をする人のことだよねと、ある友達(俳優ではないひと)にいわれたことがある。当時のわたしでもそれはちがうと分かるが、分かるのに、わたしがやろうとしていたことは実際ただの自己表現だった。だから決して良い俳優とはいえなかった。
俳優は、きっと人間であることがしごとだ。人間であることは、人と人のあいだを生きること。つまり、他者と生きること。暮らすこと。

少し逸れたけど、だから磯野さんの言うように、ひとりひとりが「暮らし」を行うことができれば、他者に耳を傾けることができるんだと思う。そういう人であふれた社会であれば、全体として他者への想像力をもつ社会になっていくことができるのだと。「暮らし」をしない限り、他者を大切にはできないとも言えるとも思う。他者を大切にしている人は、皆ちゃんと「暮らし」ている人なことがほとんどだから。

「ちゃんと暮らす」は「丁寧な暮らし」のことではない


わたしが思う「ちゃんと暮らす」ということは、よくいわれるような「丁寧な暮らし」みたいなものとは違うと思う。磯野さんの言うように、自分の力で変えられないこと、どうにもならないことの中で、それでも生きていこうとすること。

暮らしは「もの」に拠ったものではないと思う。もちろん、ひとりひとりの事情はちがうから、暮らすうえであったほうが便利なものや力をくれるものなどはあると思う。でも「丁寧な暮らし」という言葉をきく時、あまりにも「もの」が全面に打ち出されているような気がする。あれがいいよ、こっちもいいよ、やっぱりこれだよね、と。資本主義社会なので仕方ないかもしれないけれど、そういうあくまでものによって成り立つ資本社会の上での「暮らし」は、ほんとうの「暮らし」ではないような気がする。

ほんとうの「暮らし」は、太陽の運行のようなコントロールできない自然のなかに身をおきながら、あるいは任せながら、そのことをよくわかって、自分の中から立ち上がってくる生きる力に拠って、与えられた生命を営んでいくことなんだと思う。奄美大島をたずねた時、移住してまもないある人がこう言った。「ここの人たちは、生きる力をもっている人たちなんですよね」

ものにあふれた都会に生きる人に比べ、ものの少ない田舎に生きる人は、あれがなくても、これがなくても、ないならないなりに、営んでいく。みずからの手で、人と人のあいだで、あれもこれも、作っていける。創造していける。それを生きる力というのだとその人は言い、わたしもうんうんと納得した。生きる力・暮らす力というものはきっと、限りのなかで、最大限の生を発揮するということだ。

自分は何にも限られていやしないともし思う人がいたとしても、それはまちがいだと思う。人生は、だれもにとって有限だ。死という誰もが避けようのない限りのなかで生きているというそのことが、人生は暮らす力を発揮する場である、ということではないかと思う。

この絶望とも希望ともとれない、もうどうにもならない有限さの前で、みせかけの「良い感じの暮らし」ではない、「ほんとうの暮らし」を試みない手はない。わたしはまだまだ「暮らし」の入り口に立っているにすぎないけれど、これからもっと「暮らしている」人になっていきたいのだ。だから今日も暮らしの動画を撮っている。


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