「ファミリーネーム」という考え方

  選択的夫婦別姓の議論の中で、氏はしばしば「ファミリーネーム」あるいは「家の名前」と呼ばれています。しかし、保守と選択的夫婦別姓推進派とではとらえ方が異なるようです。

 保守層は、ファミリーネームとしての氏を、夫婦と子供とで共有する名前だとみなしています。選択的夫婦別姓推進派は、氏を家族で共有する名前であるとは認識しているようですが、その「家族」の範囲が血統によるものであるか、「家」の名前かは非常に曖昧ですし、(ただし、どちらかというと後者ととらえる人が多いように思います)「家制度」が壊れた以上は「家の名前」としてのファミリーネームは存在しないとみなしています。

 しかし、選択的夫婦別姓推進派の中にも氏=ファミリーネームという考え方が無意識のうちに存在しているようです。

 想田氏と柏木氏の夫婦別姓訴訟に関する報道で、「想田和弘さん夫婦」などと想田氏の名前を代表として掲載しているメディアは少なくなかったようです。選択的夫婦別姓について肯定的な毎日新聞もそのように報道しています。

 選択的夫婦別姓推進派の代表格であるサイボウズの社長の青野氏も、「相田さん夫妻」という言葉を使っています。

  このような表現に関して、想田氏本人が異論を述べました。

  選択的夫婦別姓推進派でも、別姓夫婦の片方の氏を出して「○○夫婦」と表現することがあるということは、選択的夫婦別姓推進派を含め、日本では夫婦を一体のものとしてとらえるという考え方が強く根付いているからでしょう。このような考え方は、江戸時代ごろには存在していたようです。

 言うまでもなく、想田・柏木夫婦は名実ともに別姓夫婦です。しかし、それでも人々の間には氏=ファミリーネームという考え方は無意識のうちに根強く植え付けられているのでしょう。「想田さん夫妻」と呼ぶ人は少なくありません。

 私はこれまで、言語と理性主義が相容れないことについて論じてきました。言葉は、無意識のうちに積み重なり、その話者によって共通認識として受け継がれてきた昔の人の考え方が反映されています。勿論、その概念が生まれた頃には近代的な人権の概念が存在しなかった物も存在します。無意識に存在する近代以前の思想を理性主義によって断罪することには限界があるように思います。

*こちらの記事もご覧ください。↓