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【小説】魔法使いの最後の戦い

僕の通っていた小学校の3階の男子トイレには、竹製の箒があった。それは洗面台に立て掛けられていて、そこで用を足す時には必ず目に付いた。その箒を僕たちが使う事はなかった。その理由は3つあった。まず、僕達が使う箒は、柄の部分が緑色のものだったであり、古の職人が作ったようなその箒は、僕達の小学校にはそれ1本だけしかなかったのだ。その箒は、明らかに僕達が使う為に用意されたものではなかった。次に、その箒はとても汚かった。穂先には埃などが沢山付いていたし、それに触った感触も、あまり良くなかった(表現をマイルドにしてある事を察してほしい)。そして最後に、僕達の小学校では、その箒にまつわる、ある噂が流れていた。その噂が、僕達にその箒を使わせなかった最大の理由である。

 さて、本題に入る前に、1つだけ。皆さんは、噂とは何かを、覚えているだろうか。勿論、覚えている方もいるだろう。「馬鹿にしているのか!」と思った方もいるかもしれない。けれども、僕の見立てでは、世の中の約半数の人が、大人になると噂と無縁になっていく。噂なんて役に立たないものだ、馬鹿馬鹿しい、周囲の余計な言葉に耳を貸すな、関わっているだけ時間の無駄だ。そういった冷静な言葉達を吸収した人間は、噂なんて聞かなくなるし、聞いてもすぐに忘れていく。そして遂には、噂というものの存在自体も、忘れ去ってしまうのである。それは悪い事ではないだろうし、ひょっとするといい事なのかもしれない。けれど今だけは思い出してほしい。自分が小学生の時、どんな噂が流れていたかを。どこから来たかも分からない噂が、いつの間にやらクラスの共通了解となっていた、あの時の事を。

 さあ、本題に入ろう。僕の小学校では、その箒に関する1つの噂が流れていた。皆さんには想像つくだろうか。それがどんな噂なのか。小学生の噂話が、どのようなものなのか。お分かりになるだろうか。正解を、記そう。

 その箒は、魔法使いが最後の戦いの時に使用したものだったのである。

 魔法使い? 最後の戦い? 馬鹿馬鹿しい。
 そう思ったあなたは、思い出そう。小学校というのが、どのような場所だったのかを。

 噂には幾つかの種類があった。もっとのシンプルなものはこうだ。曰く、魔法使いというのは掃除のおばさんの事であり(そういえば学校の掃除は自分達でしていたのに、掃除のおばさんがいたのはどういう訳だろう)、その掃除のおばさんが一度、小学校に侵入した泥棒をやっつけるのにその箒を使った。しかしおばさんと泥棒では、普通は勝負にならない。きっとおばさんがその箒で何らかの魔法を使ったに違いない。
 僕に言わせれば、このパターンのものは、噂を広める為の簡易版であり、また、小学生をこの噂の世界に引き入れる為の入り口として使われたものである。僕が知っている最も奥深い噂であり、当時ほとんどの生徒が知っていた、正式版とも言うべきものは、以下のようなものである。

 魔法使いというのは、実はこの学校が建てられる時に先生としてこの辺りに赴任してきた人物であり、男性である。彼は魔法を使えたが、それを知られると非常に困るので、ずっと黙っていた。ある日、学校の建物が完成し、先生達がその建物の中に初めて入った。先生達は皆、その綺麗さに感心して語り合っていたのだが、ただ1人、その先生だけは、皆と別々に行動していた。校長先生がその先生を探しにいくと、彼は3階の男子トイレで鏡に向かってライターを付けていた。ちょっと、何しているんだ。ああ、すみません、煙草を吸おうと。ここは生徒のトイレだぞ、吸ってはいかん。申し訳ありません、以後気を付けます。
 さらに数日して。事務が箒を買おうとしていたところ。彼がひょっとやって来てこう言った。箒なら私のうちにいくらでもありますよ、良ければ持って来ましょうか? いや、いいですよ、決まりですから。でも勿体無いでしょう、校長先生に相談しましょう。
 入学式の日。学校として初めての生徒がやって来た。先生達と保護者と、皆で歓迎する。けれど彼はいなかった。どこに行ったのだろう。入学式が終わり、校長先生は彼を探す。見当は付いていた。3階の男子トイレだ。おい、誰かいるのか? 彼は前と同じように、鏡に向かってライターを付けていた。しかし全く同じではなかった。今回は、彼は箒を燃やしていたのだ。箒は緑色に発火していた。おい、何だそれは! 彼は答えずに、校長の腹部を箒で付いた。校長にはいとも簡単に穴が開き、校長は彼に箒で持ち上げられた。彼は言う。お前はきっと純粋じゃない、面倒なものを刺してしまった、お前をどう処理しようか。校長が言葉を返す。お前なんか糞食らえだ、お前のほうがよっぽど不純だ、俺はこんな所で人生を終えたくないんだ、もっと出世してやる。ははは、やっぱりお前は仕方のない奴だ、お前から純粋な部分を取り出そうなんて馬鹿げていたわ、ゴミ箱にでも葬り去られろ。うわ、何だ鏡に穴が空いている、嫌だ、止めろ。さっさと消えちまえ。彼は校長を鏡の向こうの世界へ葬ろうとした。実際、校長は容易に葬られた。しかしその直前、校長はこちらの世界とあちらの世界の狭間で踏ん張り、彼をあちらの世界へ引き摺り込んだ。うわっ、やめろ! 箒に電撃が走る。箒は校長の身体を焼き焦がした。それと同時に、校長の邪悪さが彼へと襲い掛かり、彼の息は次第に苦しくなる。お前ごときに。お前ごときに。遂に彼は力尽き、あちらの世界へ消えていった。
 そして初代校長の肖像は校長室に飾られず、3階の男子トイレの鏡の水カビは何をしても取れなくなった。彼が学校に持って来た箒は誰かによって処分されたが、その1つだけは、誰かによって残されたままで、誰にも触れられず残っている。

  *  *  *

 恐らく皆さんが想定していたよりも長い噂だっただろう。そして、小学生の噂にしては洗練されていると思ったかもしれない。そうなのだ。この噂は、やけに長く、洗練されていた。実際、僕などはこの噂に虜になって、友達同士で先生に聞こえぬように語り合ったものだ。
 誰が箒を処分して、誰が箒を残しているのかを。

 

 それは解決されなかった謎であり、恐らく未だに解決していない。だからこそ僕の心に未だに残り続けている。そして僕が何かに真面目に取り組もうと本気で思った時、この噂はいつも僕を阻害する。あの時の小学校の先生の誰かが、僕の純粋さを奪い取り、残りの邪悪な部分をあちら側の世界へ捨てる為に、襲って来やしないかと不安になる。そして、僕達を守ってくれた先生が、今でも僕を守ってくれていやしないかと期待する。2つの感情の狭間で、僕はいつまで経っても動けない。
 この噂の事を気軽に話せる友人はもういない。未だに会う同級生は何人かいるが、会っても年に一度だし、お互いにすっかり他人行儀になってしまった。だからこの噂は、もう僕だけのものなのだ。誰とも共有されえぬ、僕だけの噂。永遠に解決されない、僕だけの謎。
 この謎は、1人で解くには、あまりに陳腐で、あまりに恐ろしい。

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