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【小説】ホタルテレパシー

夕夏の森の中を、いつものメンバーで歩いた。明日、6人のうち5人が東京へ行く。残るのはただ1人、僕だけだ。5人は僕と思い出の場所を失い、僕は5人を失う。明日は、そういう日だ。
 悲しくなったのか、可哀想に思ったのかは分からないが、昨日になって香織が、あの茂みの中へ行こうと言い出した。僕にそれを断れる用事はなかった。行きたい気持ちと、行きたくない気持ちが半々だった。6人でいてずっと楽しかった。楽しかったからこそ、楽しかったままの思い出で終わりにしたいようにも思った。これ以上、思い出を増やそうとして、例えば年に1度会う毎に他人行儀になっていくのには耐えられそうになかった。それならばいっそスパッと終わりにしたい。そういう気持ちもあった。けれども、結局の所、僕は凡人であり、そんな捻くれた考えに従うほどの勇気は持ち合わせておらず、僕は今ここにいる。
 森の中に、突然茂みが現れる。無論、今は冬と春の境目だから、葉っぱは1つも存在しない。この茂みは、誰かがわざと作ったかのように綺麗な長方形をしており、内部には小さな水たまりがある。僕たちがやって来た方向と反対側から、水は流れ込んできているのだが、どこから出ていくのは誰にも分からない。ここを知っているのは、僕の知る限りでは、僕達と、それから僕のおばあちゃんだけだ。おばあちゃんは、ここにはあまり来ない方がいいと言ったが、そういった種類の忠告に従う子どもなど1人もいないだろう。小学生の頃から、僕達はよく夏にここに来ていた。幸い、怪我や事故が起きた事は一度もない。
 ここでは、時々ホタルを見る事が出来た。年に1度か2度、それも沢山ではなく、多くても10匹くらいだ。多分、どこかから迷い込んできたのだと思う。向こうの方からだろう。調べた試しはない。茂みの向こうは急な崖で、どうにも登れそうにないからだ。ここでホタルを見る事が出来るのは、僕達だけだった。これからは僕だけだ。夏になれば、僕は1人で、またここへ来るのだろうか。
「なんかずっとここにいたよね」
 香織が言った。
「確かにね」
 すかさず僕が答える。どうして僕は、こうも香織の言葉にだけ、素早く反応してしまうのだろう。自分でも煩いなと思う。けれども、考えるより先に口が動いてしまっているのだ。悲しい僕の性である。
「また一緒にいたいね」
 彼女は、そう言った。誰も返事はしない。泣いている人がいた。そういう気持ちになるのも、頷ける。いかにも、そういうシチュエーションだ。しかし僕には、もう一度噛み締めるべき思い出があった。彼女の嘘で、自分の心を傷つける為に思い出さねばならなかった。

 去年の夏の事だ。僕は、香織と2人でここへ来た。どちらがどちらを誘ったのかは覚えていない。けれども僕はひどく緊張していた。だって彼女と2人きりで会うなんて初めてだったから。僕達は十数年の仲だったが、いつも6人で会っていた。誰か1人でも欠けると、僕達は急に他人行儀になった。そういう6人だったのだ。
 僕達は闇の中で、たわいもない雑談をした。学校の事と、将来の事。それはどちらも、冗談にするにはあまりにも差し迫った話だった。僕達は、人生で初めて感じる漠然とした不安を抱えながら、それでも何とか、冗談めかして軽い口調で、雑談をして笑い合った。
 笑い合っていた。それはつまり、彼女が笑っていたという事だ。悪くない。悪くない事だ。けれどもそれが、彼女の心からの笑顔だったとは限らない。彼女はよく物事を考えるタイプの人間だ。彼女は気遣いのできる人間だから、自分が笑わなければ僕が不安になると知っている。だから彼女は、僕に無理矢理笑ってみせていたのかもしれない。そして彼女は、僕の笑顔が本物かどうか、疑っていたかもしれない。
 僕の笑顔が本物だったか? 勿論、嘘だ。僕はとにかく緊張していて、感情なんてどこかへ吹き飛んでいた。真っ暗で、彼女に自分の顔が見えなくて良かったと思っていた。言葉をつっかえずに吐き出すので必死だった。考えてきた事は全部吹き飛んでいた。2人でいる時間を何とか引き伸ばそうと、それだけを考えていた。

 そこに、ホタルが現れた。
 ボウっと光って、スッと消えた。僕はそれを視界の端に捉えながら、彼女との会話を続けた。疑問文で、返したと思う。彼女からの返事はなかった。
 ボウっと光って、スッと消えた。
 1つだけ、光っていた。ホタルが1匹だけ、そこにいた。彼女が何も話さないから、僕はホタルをじっと見ていた。僕が何も話さないから、彼女はじっとホタルを見ていた。何も起きない。何も起きない時間が流れた。それは焦りに満ちた時間であり、落ち着いた永遠の時間だった。
 彼女は、じっとホタルを見ていた。ホタルの光が見えなくなるまで。光が消えて、再び見える事のなくなるまで。そして、僕は、彼女からテレパシーを受け取った。

 ああ。彼女は深く物事を考えすぎていた。
 ああ。彼女の言う通り、ホタルの光は1つ残らず確かに消えた。
 ああ。彼女の予想通り、春にはホタルは、1匹もいなくなっていた……!

 彼女は僕より少しだけ早く、大人になっていた。僕の思考は全て現実に押しつぶされた。彼女は確かに、現実を自分のものにしようとしていた。僕にはまだ、その勇気はなかった。
 彼女は、6人でいる時は昔のままの6人だった。それでも僕には分かった。彼女の心はもう、あの時とは違うのだと。僕達は僕達でいる事は出来ないし、僕達は僕達から変わらなければならない。彼女がここに戻ってくる事はない。
 僕は、彼女の言葉を訂正しつつ、返答した。
「ここに戻ってくれば、見る事は出来る

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