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ウォールフラワー

久々に会った友人が、そういえば秋頃に引越しをすると言っていたのを思い出した。
日曜の夕方、混み合う商業施設のレストランで向かい合って食事をしながら、私は彼女にそのことを尋ねた。
引っ越したばかりだけど部屋が汚い、と彼女が笑って言うので、まだダンボールが片付かないだとか物の整理ができていないだとかそういう意味だろうと思い、私が同じように笑ってそう返すと、彼女は首を横に振った。
「ひとが来る時しか片付けないからいつも散らかってる。部屋が綺麗だとなんか罪悪感あるんだよね。綺麗な部屋なんか似合わない」
冗談めかした彼女の言葉に私は一瞬呆然とした。同じことを、私も思っていたからだ。
「わかる。床とかさ、隙間を埋めるように物置いたりするよね。散らかってる方が落ち着くし」
私が言うと彼女も同意して頷いた。

片付けたばかりでまっさらな部屋の床に、バッグや買い物袋や服を点々と放り投げる時、少しだけ胸のすく思いがする。
綺麗なものを汚してやった、と、どこか優越感じみたものを覚えるのだ。なんとなく、自傷行為に近いものがあるのかもしれない。
自分だけの場所を自らの手で汚して、それに安堵している。自分にはこれがお似合いだと、言い聞かせてもいる。
彼女もきっとそうなのだろう。

今のアパートを選ぶ時、私は綺麗さや快適さなど全く気にしなかった。通っていた大学の最寄り駅と同じ路線で家賃が予算内に収まりさえすればどこでも構わなかった。だから結局、駅徒歩15分の築云十年木造アパートに住むことになった。
そもそも家賃相場が高いせいで良い所には住めないというのもあるけれど、私は地方で一人暮らしをするとなっても設備の良い所には住まないだろうと思う。
「私には似合わない」と思うからだ。

元々、私は決して裕福な家庭の生まれではない。そういうことを他の人たちがどうやって知るのかは分からないけれど、私は少なくとも高校生の頃に強く実感した。
例えば、友達に一口もらったおにぎりのラップが自分が使っているものより厚くてしっかりしていた。
例えば、友達のお弁当にはいつもデザートがついていた。
例えば、みんなが2枚ずつ持っている制服のニットベストとポロシャツを自分は1枚ずつしか持っていなかった。
例えば、遊びに行った友達の家のトイレが広くておしゃれだった。
例えば、自分は長期休暇でも両親が仕事漬けで県外にも遊びに行けない一方、クラスメイトは家族と海外旅行に行っていた。
……エトセトラ。
最近は、友人と行ったインテリア雑貨店で小さい頃に家に飾っていたクリスマスツリーの話になり、「うちにあったのはこのくらいのちっちゃいやつだったな」と友人が指さしたツリーが私の家にあったものより大きくて言葉に詰まる、などもあった。

そういうわけで、極貧とまではいかないけれど裕福でもない生活をしてきたからか、良い暮らしをしようと思えないところはあるのだろうと思う。
良い暮らしに慣れていない。私の身の丈にあった部屋は、実家のように常に生活感に溢れていて、物が雑然と置かれていて、決してキレイとは言い難いものであるべきなのだ。
ましてやピカピカのフローリングだとか、かわいいベッドだとか、綺麗な本棚だとか、そういうものはもっとずっと余裕のある人たちのものだ。

彼女が「綺麗な部屋なんて似合わない」と言った時、私は『ウォールフラワー』という映画のことを思い出した。
2012年公開のアメリカの青春映画だ。原作はスティーブン・チョボスキー、出演はローガン・ラーマン、エマ・ワトソン、エズラ・ミラーなどである。私がこの映画に出会ったのは今秋のことだった。
ウォールフラワー、壁の花。
その名の通り、パーティーなどで積極的に参加せず壁際に佇んでいる人のことを言うらしい。
そしてこれが、主人公である高校生の男の子の渾名だった。
この作品の中で、エマ・ワトソン演じる自由な女の子"サム"とローガン・ラーマン演じる内気な主人公"チャーリー"との会話にこんなものがあった。

「どうして自分を傷付ける人を好きになるの?」
サムが自分自身の恋愛についてチャーリーにそう訊ねると、チャーリーは思案する様子もなく答えた。

「自分に見合うと思うから」

正確な記憶ではないのでニュアンスの違いがあるかもしれないけれど、こういう内容だった。
そして私はチャーリーの言葉に酷く共感していた。
私や、綺麗な部屋を忌避する彼女は、「自分に見合うと思うから」部屋を散らかすのだ。
もちろん部屋の話だけではない。
映画の中でサムは、俗な言い方をすると「男運がない」女の子だったが、私の友人である彼女もそういうタイプだった。傍から見ていて、どうしてその人?と思うような人を好きになって傷付いているのを何度も見た。一方の私は、自分の身体を道具にして自分に女体としての価値しかないことを確認することで安心を得ているところがある。人間的な長所や人としての美点などないと思う方が楽だったし、実際そんなものが自分にあると思ったことは一度もない。
私も彼女も、自分を幸せにしてくれるものや人より自分を不幸にするものや人の方が相応しいと思っている。傷付けられている方がいいのだ。たぶん、幸せになる必要がないと思えるから。

自分自身に価値を認めるのは苦しい。他人に蔑ろにされた時、その認知的不協和に耐えられない。
私が私を大事にしているのに他人が私を大事にしないというのは苦痛なのだ。だから最初から、自分には価値がないから他人に傷付けられても大丈夫なのだと思っていなければならない。
幸せになるべき人間だとか、幸せになってもいい人間だとか、自分自身をそういう大切で尊いもののように扱って、いざ幸せになれなかったら。
私は耐えられない。私たちは耐えられない。
だから、自分に見合う傷を見合う深さで与えているのだろう。
綺麗な部屋は、綺麗な部屋を恐れない人のためにある。

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