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アンドロイド転生875

2118年9月10日 午後
イギリス:ハスミ邸

(エマの視点)

家で1人だったので久し振りにピアノに触れてみた。ちょっとだけ…と思ったのに、いざ弾き出すと楽しくなった。でも時々リズムが狂う。なんたって6ヶ月振りだもの。手が鈍っていた。

「ベートベンは素晴らしいわ。ママ大好き」
母親がリビングに入って来た。平静を装っているけど喜んでいるのが見て取れた。弾き終わって不満が残る。調律も少し狂っていた。

間もなく毎日の恒例のリョウがやって来た。今日で70日目。彼は変わった。最初の頃のおどおどした様子はなく余裕が感じられる。私自身も怒りなどとうに消え失せていた。

母親がリョウにピアノを弾いたのだと楽しそうに語った。余程嬉しかったと見える。そりゃそうだろう。娘がやっと本来の姿に戻りつつあるのだ。それでは…とリョウに披露した。

せっかく弾いたのに以前のようには指が動かないし調律も今ひとつ。リョウは気付かないだろうがプロとして恥ずかしい。するとなんと彼は知り合いの調律師を紹介すると言い出した。

母親と顔を見合わせた。驚いた。リョウに…イギリスに知り合いがいるのか。いつ知り合ったのだろう…。それとも最初からいたのか…。閉鎖的な村の出身なのに世界に通じていたのか?

しかも『1/fゆらぎ』について語るのだ。人間にとって快適性の高い音の事だ。漣や葉擦れなど精神が安定すると言われている。それに人がピアノを調律すると微妙なゆらぎが生まれるのだ。

それが美しい音色を奏でる。確かにアンドロイドが調律すると正確性は人間を凌駕する。それでも人は快適性を求めるのだ。
「そうね…音のゆらぎを…人は感じ取るから…」

リョウは満面の笑みを浮かべた。
「そう!そうなんです!僕の友達もその『ゆらぎ』が大事だって言うんです。人間の成せる技だって。どうですか?頼んでみますか?」

エマはピアノを眺めた。人の五感に委ねてみたくなった。素晴らしい音色に調節してもらえるなら嬉しいし弾く事も更に楽しくなりそうだ。
「うん。お願い。来てもらって」

エマはまたひとつ前進した。他人と交わるのだ。リョウは嬉しそうな顔をした。
「分かりました。早速連絡を取ってみます」
間もなくリョウは帰ると言って立ち上がった。


ユリエ(母親)の視点

リョウと共に玄関に行く。これもいつものこと。どうしてだかエマは見送らない。まぁ…良いわ。何かルールがあるんでしょう。また明日ね、と言って手を振った。彼も微笑んだ。

リョウの背中を見つめながら口元が綻んでいた。嬉しくてならなかった。最近の娘の変化に心から安堵していた。リョウが来てからエマは変わった。笑顔が増えてとうとうピアノも再開した。

散歩もするようになったしコンサートにも行った。そのうち2人は…食事に行くかもしれない。そして…いつか愛を育んで…結婚してくれれば…。こんなに嬉しい事はない。

ユリエの中でリョウはすっかり娘の恋人以上の存在になっていた。家族の一員として迎え入れたいのだ。それ程絶対的な信頼があった。何せ、病んだ娘を救ってくれたのだから。

その日の晩にまた夫に報告する。娘の着実な前進に大喜びだった。夫は満足げに頷いた。
「ピアニストに戻らなくてもいいんだ。エマが幸せになるなら主婦だってなんでもいいさ」

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