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だれだってぐるぐるする

がんセンターの医師の
「5年生存率5%」
という宣告を
「5年以内の死亡率95%」
と読み替えたぼくには
死を受け入れ以外に選択肢はなかった。

死んだら何処に行くのだろう

「人は死ねば無に帰るだけ」
という話は聞いたことがあった。

死んでしまう自分はそれでもいい。
しかし、遺された者は、それでいいのか。
よくない。
大切な人がいなくなって、
いなくなった後、
消えてなくなってしまった。
遺された者が、そんな想いをすることが、
とても残念に思った。

そんな中、精神腫瘍科医の勧めで、
「日本人の死生観」を学び始めて、
まずは、宮沢賢治の詩と出会う。

かんがへださなければならないことは
どうしても
かんがえださなければならない
とし子はみんなが死となづける
そのやりかたを通って行き
それからさき
どこへ行ったかわからない
それはおれたちの空間の方向で
はかられない
感ぜられない方向を
感じようとするときは
だれだってぐるぐるする
 「青森挽歌」宮沢賢治

そうだ。
だれだってぐるぐるする。
死んだらどこにいくのか。
死んでいく自分はどうでもいい。
遺された者がぐるぐるしない場所。
遺された者に都合のいい「行き先」はないものか?

そう探していくうちに、
民族学者柳田国男の次のような文章と出会う。

「昔の日本人は、死後を信じて居た。
 死んでも盆毎に家に還って来て、
 眼にこそ見えないが子の子、
 孫の孫たちと、飲食休養を共にし得る
 ということが、
 どれほどこの家の永続を切望させ、
 又大きな愛着を是に対して
 抱かしめたのか
 測り知れないのである」”

「日本を囲むさまざまの民族でも、
 死ねば途方もなく遠い遠い処へ、
 旅立ってしまうという思想が、
 精粗幾通りもの形を以て
 大よそはいきわたって居る。
 独りこういう中に於いて
 この島々にのみ、
 死んでも死んでも同じ国土を離れず、
 しかも故郷の山の高みから
 永く子孫の生業を見守り、
 その繁栄と勤勉を願念して居るもの
 と考えだしたことは、
 いつの世の文化の所産で
 あるかは知らず、
 限りも無くなつかしいことである」

                   
日本人は、死ねば「この世」から
遥か彼方の「あの世」ではなく、
近くの山や海にある「他界」に行く。
そして、「他界」から子孫の幸福を見守る。
そう信じていたという。

これはいい。
これならば、遺された者も救われる。
とても「都合がいい」死生観だ。
ぼくは、日本人の死生観に感心する。

そして、ぼくは日本人の死生観を探して、
自分なりの死生観
「さようならの理(ことわり)」
をみつけることにする。

どうしても避けられない死を
「是非もなし」と、受け入れることが
自分としての悔いのない死にざまにつながると思ったからだ。

そう、「死にざま」は「生きざま」でもあるという。
ぼくが悔いのない人生を送ることこそが、
遺される者たち、
ぼくの大切な人たちの慰めになるだろうから。

さようならの理



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