第五章 関ヶ原の戦い 〜直江状と伏見城の戦い〜

慶長5年(1600年)。
この年に、大きな戦いがありました。

どれだけ大きなものかっていうと……この戦いの勝ち負けがもしもぎゃくだったら、いまの日本に住む人の生活やかんがえ方が、ぜんぜんちがうものになっていたかも……ってくらい、大きな戦いです。

大げさに聞こえるかもしれませんが、のちの世の中にえいきょうをあたえたランキングは、戦国時代の中で、ナンバー1。
有名ランキングでもナンバー1だと思います。

その戦いの名前は、


『関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)』。


ここで名前を聞かなかったとしても、どこかで必ず耳にすることになるバトルです。

さて、その関ヶ原。
そもそものはじまりは、家康にとどいた、こんなほうこくからでした。


「家康さーん! 会津(あいづ。福島県)の上杉景勝が、武器を集めたり、お城をなおしたりしてますー! なんかあやしいですー!」


会津にいる五大老の1人

上杉景勝(うえすぎかげかつ)

が、「"むほん"をおこそうとしている」。

つまり


「豊臣家をうらぎろうとしているんじゃないのか?」


というウワサが、家康のもとにとびこんでくるんです。

このニュースを聞いた家康は、


家康「上杉さん、豊臣をうらぎろうとしてんの? それがホントならサイテーだよ!! どういうことか、大坂まで説明しにきなさい!」


と、上杉景勝を問いつめるんですね。

しかし、上杉家からしたら、


「いや、うらぎろうとしてんのはそっちだろ!」


って話です。

豊臣と親しい上杉に言いがかりをつけて、こっちの力をけずろうとしやがって……と、ふざけんなの気もちでいっぱい。

でも、いま日本でトップの家康に言われたからには、大坂に行かないとえらいことになるのはわかってる……。


うーん……。


「かんべんしてよ…」の上杉家は、とりあえず家康にお手紙を出すことにします。
手紙を書いたのは、上杉景勝の家臣で


直江兼続(なおえかねつぐ)


という武将。なんですが……

このお手紙がとにかく長く、とにかく、

ヤバイ。

なにがヤバいかは、見てもらったほうが早いと思うので、短く、いまふうになおしたものを読んでみてください。

ぜひ、家康になったつもりで。

ポイントは、

"自分よりすんごーくたちばが下のやつからの手紙"

ってとこです。
ではどうぞ。

『オレらについて、いろんなウワサが飛びかってて、家康さんも上杉家のことうたがってるみたいですね? あのねぇ、むほんなんておこすわけねーだろ。大坂きて説明しろって言うけど、うちらにだって会津での仕事があんだよ。それに、こっちは雪ふったら動けねぇーの!
お城なおしたり、武器集めてるのもあやしんでるんでしょ? いや、武士が鉄砲や弓を集めるのあたりめーだろ。
てか、そんなこと気にすんの、ちっちゃくないすか? 
で、『こっちに来て説明しろ!』って、あまりにクソガキのかんがえで話になりません。今こちらから戦争ふっかけたら、オレたちが悪者にされるんで、いちおうやめときます。でも世間はどっちが悪いか知ってますよ。
かんがえを変えてもらいたいんで、えんりょなく書いてみました。 直江兼続』


家康「ふざけんなコラァァァァーーーーー!!!!」


そりゃキレます。

なんと上杉家は、直江兼続が書いた手紙で、家康にどうどうとケンカをうってきたんです。

家康からすれば、白目になるくらいキレちゃう手紙。
直江兼続からすれば、日本で一番の実力者に言いたいことを言った、勇気ある手紙。

これが『関ヶ原の戦い』のキッカケになったと言われている

『直江状(なおえじょう)』

という、お手紙です(ちなみに『直江状』は写ししかのこってないので、ホントのホントは何が書かれてたのか、わかってません)。


いかりのおさまらない家康は、たくさんの大名や武将に声をかけ、

「秀頼さまをうらぎろうとしてる上杉をうつぞ! ついてこい!!」

と、会津にむかうことを決めたのでした(これ『会津征伐(あいづせいばつ)』っていいます)。


『直江状』がキッカケで家康が動く。

家康が動いたキッカケで"ある男"が動く。

"ある男"が動いたキッカケで、『関ヶ原の戦い』。

その"ある男"とは……


石田三成のことなんです。


家康はね、ずっとかんがえてたんです。

「自分にはんこうしてくる三成を、いつかはたおしとかなきゃ」

って。

そのためには、あちらから戦いをしかけてきてくれるのが一番いいんだけど、家康じしんが、

「佐和山城(滋賀県)でおとなしくしとけ!」

と、三成を追っぱらっちゃってますよね。

それでも、どうにか動いてくれねーかなぁ……

と思ってたところへ、

「上杉にむほんのうたがいあり!」

のほうこく。

からの、

「『直江状』でケンカうってきたぞ!」

というさわぎです。

これで家康、「きた!」となったわけですよ。

たくさんの武将を引きつれて会津にむかえば、大坂や京都にだれもいなくなる。

すると三成は、
「今がチャンスだ!」
と、ぜったいに挙兵(きょへい)する(兵を集めて戦おうとする)。

兵をひきつれて、戦いをいどんできてくれれば、三成とどうどうと戦うことができる。

つまり家康さんは、

"三成をさそいだすために『会津征伐』を利用した"

と、こういうことだったんです(これは、1つの説です。ぜったい本当ってことじゃありませんよ)。


とんでもないことかんがえますよね、このおじさん。

さらに、家康は、三成が挙兵したときのために、こんなこともかんがえます。


家康「まず、三成にこちらの城をせめてもらわねば、やつをたたくことはできん。しかし、それには、こちらにとって大事な城をわざと手うすにすればいいだけだ。
伏見城(京都)にのこす兵を少なくすれば、三成は必ずそこをせめてくるはず!
しかし、伏見城をまもるものは……」


おそらく死ぬことになります。

伏見城を必死におとそうとする三成は、大軍でせめてくるはず。
そこをまかされた武将は、ぶじではすみません。


家康「しかも、わたしがもどってくるまでの間、数日は持ちこたえてもらわなければこまる。すぐさま城が落ちたのでは、三成側に有利なじょうきょうとなってしまう……。
これをまかせられるのは……」


家康はこの役目を、


鳥居元忠(とりいもとただ)


にたくします(第二章、第四章とうじょう)。

人質時代から50年もの間、自分につくしてくれた元忠。
そんな家臣に家康は、死ぬことが約束された仕事をあたえたのでした。


会津へむかう前の夜、家康と元忠は、2人で酒をのみました。


家康「おぼえているか! お前あのとき……」

元忠「何をいわれますか! 殿があそこでダダをこねるから!……」


駿河の人質時代、ともに子どもだったころからのつきあいです。
酒はすすみ、思い出話に花がさきます。

苦しかった時代のことも、今となっては笑い話にかわってるものばかり。
夜が深くなるにつれ、2人の笑い声はどんどん大きくなり、何度も重なっていきます。

やがて、家康はポツリとこぼします。


家康「伏見城にのこす兵の数は少ない……お前には苦労をかける……」

元忠「……そうは思いません。わたしは……じゅうぶんな数だと思っております(ニコッ)。
殿が天下をとるためには、より多くの家臣が必要になってまいります。三成の軍ぜいにかこまれたときは、伏見城に火をかけ、うち死にするというのに、ここに多くの兵をのこしていけば、それがムダになってしまう。
どうか、一人でも多くの家臣をつれていってくださいませ」


元忠の言葉に、家康は何も返しません。

2人の語らいをそっととじるため、元忠は手伝いの者をよびます。

部屋に入ってくる家臣。
寝じたくを手伝うため家康に近づいた家臣はハッとします。

家康が泣いていたんです。

元忠に会うのはこれが最後。

だから、

ボロボロ、ボロボロと。

家康は、なみだを止めることができなかったのでした。


元忠との別れから約1ヶ月後。家康の読みはあたります。


家康家臣「殿! 鳥居元忠どのから知らせが! 石田三成が挙兵! 伏見城を石田方の軍ぜいが取りかこんだそうにございます!」

家康「きたか!!」


会津にむけて進む家康にとどいたのは、三成挙兵の知らせでした。

三成に味方した大名たちの軍ぜいは4万。
対する伏見城の兵数、

わずかに1800。

いっしゅんでかたがついてもおかしくない兵力差。

ですが、三河武士たちはその意地を見せつけ、なんと、10日間以上伏見城をまもりきったのでした。


鳥居元忠と家康の家臣たちが、最後の最後まで勇かんに戦ったあかしは、伏見城の床板に血のあととして残りました。
供養のためにその床板をはがし、京都のいろんなお寺の天じょうにはりかえたものは「血天井」とよばれ、げんざいでもそれらのお寺に残ってます。


家康家臣「殿。元忠どのが……」


元忠がなくなったという知らせは、家康のもとにもとどけられます。

大切な家臣を失ったことを知った家康は、馬から転げ落ちていき、そのまま地面に顔をうずめると、まわりの目も気にせず、大声で泣いたのでした。

家康と元忠との別れがどんなものだったのか、本当のところはわかりません。
ただ、一つだけたしかなのは、

心の底から信じあった主君と家臣がいた。

この事実だけです。



いよいよ動きだした三成。

家康は、『会津征伐』にむかうとちゅうの小山(おやま。栃木県小山市)で、

「みんなを集めろー!」

と、会議をひらくんです。

武将1「なぁ、集められたのって、たぶんあのことだよな?」

武将2「まぁ、それしかねーだろ。三成が……あ、家康さん!(おじぎ)」

武将1「あ!(おじぎ)」

家康「(みんなの前にきて)みなさんもすでに知ってるとは思うが、三成が挙兵しました」

武将1「……(やっぱりあたってたな?)」

武将2「……(ああ)」

家康「わたしはここから、京都・大坂にむかい、三成と戦う!」

武将1「(ふむ。まぁそうでしょうね)」

家康「しかし、みなさんの中には、大坂にいるつまや子どもが、三成の手によって人質にとられている人もいます」

武将2「(ホント、三成サイテーだよな。オレ…)」

家康「なので!!!」

武将1&2「(ビクッ!!!)」

家康「家康につくか三成につくかは、みなさんの自由にしてくれていい!!」

武将1&2「(なぬっ!!!?)」

家康「三成につくと言って、いますぐここを出ていかれようとも、わたしはそれをせめない!!」

武将1「(マジで!? え、みんなどうするんだろう!?)」


………………。


武将2「………(……ぅわーだれもなにも言わないじゃん……この場の全員が三成につくっていったら、家康さん大ピンチになるのに、すげーこと言うなぁ……)」

家康「……」

武将1「……(家康さん、どうどうとしてんなぁ……さすがだ。でもみんなどうすんの……。

(※ここからは武将1&2による、”目線”だけのやり取りです)

おい……おい……おいって!)」

武将2「……(なんだよ!)」

武将1「…(おまえ、どうすんの?)

武将2「…(え? ……オレは……まぁ……あれだよ)」

武将1「……(……あれだよってなんだよ? どっちなのって聞いてんの!)」

武将2「…(うっせーな! あれって言ったらあれだろ!)」

武将1「…(わかんねーよ! あれがなんなのかを教えろって言ってんのに! ま、いいよ。じゃ、その”あれ”を、大きい声で言え)」

武将2「…(はぁー!? なんでオレが一番に発表しなくちゃなんねーんだよ!!)」

武将1「…(オレがこういう『シーン……』とした空気ニガテなの、おまえも知ってんだろが!」

武将2「…(はつ耳だわ!!)」

武将1「…(だからおまえがバチーン!と、どっちにつくか大きい声で言え)」

武将2「…(なんでだよ! おまえの”ニガテ”を取りのぞくためにオレを使うな! おまえが声だしゃいいだろが!)

武将1「…(フッ……自分の意見を言うのは……もっとニガテだ(キメ顔))」

武将2「…(カッコつけて言うな!! だいたい、もうちょっとまっとけば、だれかがなんか言うよ!)」

武将1「…(それがまてないからおまえ…)」

福島正則「オレは!!!」

武将2「(ほらきた!!!)」

武将1「(どっち!!?)」

福島正則「オレは………家康どのにつく!! 三成は、秀頼さまと豊臣家のためにならない! うちはたすべきだ!」

武将1&2「(おぉ!!)」

黒田長政「その通りだ! オレも家康どのにつく!!」

武将たち「オレもだ!」「同じく!」「オレも家康どのにつく!」「オレも……!」

武将1「(みんながそうなら……)オ、オレもだ!!」

武将2「あ、オレも!!」

家康「みんな………ありがとう!! (……マジでホッとしたぁ……)」

この『小山評定(おやまひょうじょう)』とよばれる話し合いで、家康は、そこにいたほとんどの武将を味方につけることができたんです(『小山評定』は、ホントはなかったんじゃないかという説もあります。どっちにしろ、武将1&2みたいなやつはいなかったでしょうが)。

さぁ、これでそれぞれの軍がととのいました。

決戦はもう目の前。


「家康ゆるさん!」の軍を集め、総大将を毛利輝元(もうりてるもと。五大老)にお願いした、石田三成。

「三成ぶったおす!」の軍をまとめ、総大将はもちろん自分でつとめる、徳川家康。


総大将でいえば「徳川家康 VS 毛利輝元」の対決。
だけど、じっさいは……


東軍・徳川家康軍 VS 西軍・石田三成軍


の戦いが、いま始まろうとしています。


つづく。



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本当にありがとうございます!! 先にお礼を言っときます!