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【第11回】 東西ドイツの統一とソ連の解体、中国の「改革・開放」

3.第2次世界大戦後の「冷戦」下における「戦争」の構図(1950年~1980年)
【第11回】 東西ドイツの統一とソ連の解体、中国の「改革・開放」
 ≪問い≫
1.テーマ:「ベルリンの壁」崩壊とドイツの東西統一
 ・「ベルリンの壁」崩壊、ドイツの統一は世界にどう影響したか?
2.テーマ:ソヴィエト連邦の解体と周辺衛星国
 ・ソヴィエト連邦の解体は周辺国にどのような影響を与えたか?
3.テーマ:中国の改革開放と天安門事件
 ・中国の改革開放はどのように始められ、第二次天安門事件はなぜ起こったか?

≪問題提起≫
1.「ベルリンの壁」崩壊、ドイツの統一は世界にどう影響したか?
「ベルリンの壁」崩壊・東西ドイツ統一後、ポーランドとドイツの国境問題が最終的に解決し、これが東欧諸国のEUへの一斉加盟への契機となり、世界はグローバル経済へと向かって行った。この流れの中でソ連は崩壊し、世界的には冷戦終結、核戦争の危機の回避、新国際秩序形成となった。
しかし、冷戦の西側勝利による東側の吸収という形は、旧東欧諸国のコメコン崩壊による輸出減少、国際決済制度の転換の躓きによる決済の混乱、国営企業整理による資産の西側企業への捨て値売却、国営企業倒産による東側住民の失業、経済的困窮と民族意識覚醒による暴動・内乱、経済的格差拡大かつ国際間の人の移動の自由化による裕福な西欧諸国への大量の移民、EUの進める脱炭素政策による石炭火力から天然ガスへの転換を原因とするエネルギー危機などを招来し、東欧諸国にとっては当初の夢は破れ、負の側面の大きなものとなった。東西両陣営合一によるグローバル経済化は突発的事件を発端としたため、事前の計画も準備期間もなくひたすら混乱の中で世界情勢の不安定化を招来することとなった。

2.ソヴィエト連邦の解体は周辺国にどのような影響を与えたか?
東欧での自由化革命の激化に同調する形で、今までソ連中央の軍事的抑圧と「社会主義経済」の非効率性(特に消費財供給の絶対的不足)、移動の不自由に激しい不満を抱いていたバルト3国やアゼルバイジャン、グルジアなどソ連内共和国が次々に独立し、ソ連解体を宣言した。一方ソ連共産党のクーデター以後、ソ連の中央集権体制も崩壊、ソヴィエト連邦内および東欧諸国に対する軍事的圧力の中心だったワルシャワ条約機構も崩壊し、ソ連が解体され独立国家共同体(CIS)に変わった。
その後、ソ連から独立した国々はロシア連邦の支配から自国を守るためにEUに加盟し、西側軍事同盟であるNATOにも加盟した。さらにCIS内の共和国でもそれに同調するものがでてきた。その結果、かつて西側陣営と張り合った東側陣営はみるかげもない有様となった。このことを西側は「冷戦の勝利」と位置づけ、東側の住民を安い労働力の提供者として積極的に利用した。反面、経済建設のための特区の整備や経済指導方法に対する支援、また金融技術の移転については、西側の国家機構・経済機構の変革を伴うため、十分には行なわれなかった。その結果、ロシアおよび旧東欧諸国は一部の国を除いてヨーロッパ経済の新たな負担となり、ヨーロッパ情勢を不安定にさせた。

3.中国の改革開放はどのように始められ、第二次天安門事件はなぜ起こったか?
毛沢東は「大躍進政策」で大量の餓死者を生み、指導的地位を失った。挽回のために彼が起こした文化大革命は全土での激しい権力闘争に変わり、その結果、中国は長期に治安が乱れ経済は疲弊し、毛沢東死後、後継者は失脚した。「資走派」とされた幹部たち(鄧小平ら)は復活し、「4つ(農業・工業・国防・科学技術)の現代化」をすすめ、社会主義経済から、人民公社解散、「非労働所得」容認、商品経済システム導入等の市場経済に移行する「改革・開放」路線へ転換した。特に「経済特区」を新たに複数設置し香港・台湾・韓国・日本などの資本を呼び込んだ政策は経済躍進に大きく貢献した。
第二次天安門事件は、安徽省人民代表選への抗議デモの対応を巡る改革派胡耀邦(解任後は趙紫陽)と守旧派李鵬の対立を発端とし、改革派に同調した知識人・文化人による党幹部と新興企業との癒着・腐敗への追及、民主化への要求の激化が要因である。これに対し軍事委員会主席鄧小平は、改革派胡耀邦逝去に対する学生らの追悼行動を「動乱」と決めつけ、戒厳令を発令、軍による弾圧を行なった。その結果は一般市民・学生の死者2600名、負傷者1万名に上る惨劇となった。
この「改革・開放」路線は、近代化に必要な基盤を欠き、武力弾圧・監視体制を内包し、目的である経済発展と矛盾する側面を持っていた。

写真:第二次天安門事件(89年6月4日北京天安門広場付近)

 


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