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この舟に立つ死亡フラグ

ヘンなことを書くけれど、年明け少ししてからなぜか、死が近づいているような錯覚に陥っている。
あ、でも悲壮感とかそういう類ではない(だから書いているのです)。

昨年の父との対話で、「こっち(あの世)もそっち(この世)も一緒」という言葉を受け取ったからかもしれない。
あの世とこの世の間に線を引いて、肉体と感情がもたらすエネルギーの揺らぎこそがこの世を生きる人間の「チャーミング」だと考えて疑わなかったし、今もそう思っている。
センジュ出版の本作りにおいて、時々著者に「原稿に“ひだ“が欲しい」と伝える時の「ひだ」とは、感情の揺れのことだ。
そんなチャーミングさを、この世で肉体を生きた証として遺していって欲しいと今も考えている。
清流のような文章は引っ掛かりがない。こっちの感情に問いが生まれない。それならAIでいいかもしれない。
そのうちAIも引っ掛かりを書き始める気もするけれど。

しかし、2020年に『しずけさとユーモアを』という自著を枻出版社さんから出してもらった時、面識ない読者の方から「著者が泣きすぎるので、文章に入り込みにくい」といったようなコメントがあったことを記憶している。
まったく否定できない。
泣きすぎる弱さを、ずっと放置して48年生きてきてしまった。

昨年、放置してきた自分と対話してみる機会に恵まれた。
相手は腐った私なのかと思っていたら、案外普通に楽しそうにしていて、なあんだそんな感じか、と気抜けした。

その後、凪がやってきた。

乗っているこの舟が、あまり揺れない。
喜びも悲しみも、もちろんまだまだそれぞれが波を起こしているけれど、喜びすぎる、悲しみすぎる、という渦を避けて、カームベルトに入ったような。
calmはしずけさ。
しずけさとユーモアを大切にする、をバリューに掲げている会社なのに、私自身の感情はこれまで、カームから外れることがしばしばあった。
でも今は、凪にいる。
センジュ出版の対話も様変わりして、凪のそれになった。
これまで対話の間に握っていたナイフは、小さな花びらに変わった。

で、冒頭の死について。

精神科医のキューブラー・ロスによれば、人が死を受け入れるプロセスには5段階あるのだそう。
一昨年、さだまさしさんのマネージャー松本秀男さんナビゲートの終末期ケアにまつわる「いっぺん死んでみるセミナー」を受けた際にも、この流れに関する体感があったように思う。
「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」。
この5つのプロセスを行きつ戻りつして進んでいくのだとか。

受容は、凪なんだろうか。
あわいにある、しずけさだろうか。

今、凪の上にいる自分は、何かを諦めたわけでも、虚無になったわけでもない。
す〜っと、力まずに舟を進ませてもらっていることを、どこか心地よくありがたく思っている。
でも一方で、私が私でなくなったような感覚もある。同時に、私という輪郭が溶け出していくような。
なんというか、この舟に死亡フラグが立っている感じ。
死にたいわけでもないし、死を受け入れたわけでもないし、それにきっとまたこのカームベルトを外れて大波にのまれることだってあるだろうけれど、こうして鼻歌歌いながら凪を進んでいくことができる日のことも、覚えておこうと思う。

明日死んでも後悔しないようにこの舟にしずけさとユーモアを乗せて、できる限り遠くまでこの舟を進めながら、あちこちの街のあちこちの人を、今年も訪ねていきます。

あなたに、あなたの必要な対話をお届けできますように。

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