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親と子の生活リテラシー<その5>「性教育」について

◼️「性教育」を一度、分解してみる

今回はやや扱いが難しいお題です。まあ、難しいと思っているのは小生の持っている性教育への先入観だと思いますけど。親子だと、子供の成長に伴って避けることができないものです。そして、この性教育って小生が受けたものより、より複雑になっております。ええ、小生の性教育の知見は遅れ気味だと自覚しております。有り難いことではあるのですが、子供が性教育を学ぶツールは格段に増えてますし、分かりやすい本なども増えてますね。その分、親は肩に変な力を入れなくても良くなってきてる気もする。では、その辺りに親がどう関わるのが良いかって、一度、試考しようっていう魂胆です。


娘「多様性の話で、LGBTQってあるじゃん」

父「うむ、セクシュアル・マイノリティの話かな? どこで仕入れたのかな?」

娘「いろんなところで出てくるよ。本とかネットとか。いじめ防止に関する話なんかじゃ、世の中には多様な人々がいることを知ろう!ってところにもあったよ」

父「なるほど。性教育とは違うところから出てくるのか、そういう時代といえば時代だもんな。とーちゃんの子供の頃には、まったくなかったよ」

娘「じゃあ、LGBTQ知ってるって言ったけど、何の略か知ってるの?」

父「えー、Lはレズビアン、Gはゲイで、B・・・ってなんだっけかな」

娘「やっぱ、昭和なんだね」

父「BTQって韓国のアイドルとか?」

娘「それ、BTSだから。おまけに、オヤジなんだね」


令和の性教育は、昭和のそれから、かなり進化してるのは間違いありません。さて、それがどのくらいなのか、生成AIとかで当たりをつけてみます。

世界中の国々で性教育のカリキュラムや教え方は異なります。性教育の内容やアプローチは文化、宗教、法律、教育制度に影響を受け、多様性があります。以下は、一般的な性教育のカリキュラムと教え方の一般的な要素ですが、国によって異なることを理解しておいてください。

・生理学的知識: 通常、性教育のカリキュラムでは、生殖器の解剖学、生理学、月経周期、妊娠、出産、性感染症などの基本的な生理学的知識を教えます。これは、身体の変化や健康に関する理解を提供します。

・性の発達: 子供や若者の性的発達に関する情報も提供されます。性別のアイデンティティ、性的指向、性的感情、身体の変化、精神的な健康に関するトピックが含まれます。

・セクシュアル・エデュケーション: セクシュアリティに関する知識やスキル、コミュニケーションスキル、同意の重要性、セクシュアルハラスメントの防止など、セクシュアリティに関連する教育が行われます。

・安全な性行為: 性的健康とセキュリティに関する情報が提供され、避妊方法、性感染症の予防、HIV/AIDSなどのトピックが含まれます。

リレーションシップ: 健全なリレーションシップの築き方やコミュニケーションの重要性に関する教育も一般的です。同意や暴力の防止、愛情表現、友情、家族関係などが含まれます。

・性差別と性的暴力: ジェンダー平等、性差別、性的暴力に関する意識を高めるための教育が行われることがあります。

カルチュアル・センシティビティ(Cultural sensibility): カリキュラムは地域の文化や価値観に合わせて調整されることがあり、異なる文化や宗教に対するリスペクトが強調されます。

性教育は一般的に、年齢に応じて段階的に提供されます。初等教育段階から高等教育段階まで、内容が適切に調整され、年齢に合った言葉やアプローチが採用されます。また、多くの国々では性教育の提供に関する法的な規制や指針が存在し、教育機関や教育者はこれに従う必要があります。

生成AI

なるほど、随分広いねー。この中で確実に新しいのは「リレーションシップ」「性差別と性的暴力」「カルチュアル・センシティビティ」だな。
 リレーションシップだと、当事者の同意についても性教育に入ってきつつあるようです。コンセント=相互合意についても、性行為の前段としてのコミュニケーションとして、昨今は重視される傾向にありますね。ここで躓くと、全ての性的行為は性的暴力になります。
 性差別には、先のLGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クイア)が挙げられています。性的暴力に関しては、セクハラ防止なんかが必須になってますけど、小生の子供の頃の性教育には、かすりもしない話題でした。
 昭和系の男性がセクハラに無自覚な場面が散見されるのは、引き潮でできた潮溜りに取り残されているからなのだった。足元のカルチュアル・センシビリティ(文化的配慮としておきます)の地軸は動いているのです。

◼️「性は現場で起きている」

生成AIのカリキュラムを叩き台に、性教育に枠組み(フレーム)を設定してみます。性教育がかなり多岐にわたる視点を求めてきていることは間違いないので、ここを3つの視点違いで区分けしてみます。

・主観的なアプローチが一人称の視点(私)

間主観的なアプローチが二人称の視点(私とあなた)

客観的なアプローチが三人称の視点(私たち)

図表129


図表129に3つの視点に沿って、性教育カリキュラムの対象を入れてみました。人称ごとに、性知識・性プロセス・性課題ってテーマ名が書けそうですな。さて、全体の分布を眺めてみると、二人称、三人称の中の性プロセスや性課題の項目が多く配置されてます。かなり、性教育はカテゴリー拡張してるってことです。徐々に性教育の重心は社会性に向かっていると言えそうです。

 とはいえ、「性は現場で起きている」のです。性衝動と性体験に呑み込まれる「私」は、性教育からは精神的に遠い場所にいます。つまり、「Hの没入力の前には誰もが無力ってこと」を覚悟した上で、没入力圏外を性教育がカバーするってことになります。(図表129のエンジ色の矢印)

 このあたりをもっと生々しく補完するために、生物の交尾という行為を同じ図表に組み込んでみました。

図表130

 人を除く生物全般に性教育はありません。種の本能アプローチのみで交尾行動が成立します。繁殖期が交尾開始のトリガーになるので、生物全般の「性は期間で起きている」と書いてみました。生物全般の集団の性衝動と性体験は、人間の個人の性衝動と性体験に相対するものです。(図表130 ターコイズブルーの矢印)

 試考すると、子供を個人として眺めていく姿勢が、親が扱う性教育では誠実な態度ではないかと。で、その延長で、親と子の「性教育」視点を使って立ち位置の違いを描いてみます。

子は、性の現場への関心から自主的に関連情報を収集する。
関心が高いのでほっておいてもそうなる。関心順は、一人称(性知識)→二人称(性プロセス)→三人称(性課題)。親は現場には介入できないのだ。まず、ここを受け入れる。

親は、現場から最も遠い順に関連情報を提供する。
三人称(性課題)→二人称(性プロセス)→一人称(性知識)の順で性に関連する情報を子供に提供する。年齢軸で言うなら、小学生から性課題中心に伝え、中学生から性プロセス中心に伝える。それぞれにプラスされる性知識はミニマムで、質問されたら答える感じ。

 もちろん、これらは子供の性への視界を広げるためです。だが、それだけではありません。時代とずれている自分に気が付く機会にもなるのです。むしろ、子供の性教育は、親が刷り込まれた古い性教育を是正するチャンスではないでしょうか。
 性的暴力、性的差別、性的文化の規定も扱い方も変わってきていますし、これからも、変わり続けるでしょう。ましてや、ジェンダー・バイアスの規定は加速度的に変わってきています。昨日まで普通だと思っていたものが、今日は偏見なのです。(昨今の映画「バービー」とか、書籍「射精責任」とか見るにつけ、古い男性ほど強い向かい風が吹く時代だね・・・笑いなし)

 子供に情報を提供すると書きました。でも、親の変容も期待してますから、「親と子が共有する」が理想です。実は、ここに大人のアンラーニングがあるのです。性教育の子のラーニングは、親のアンラーニングの機会なのだった。


 ◼️不登校の教育にも拡張してみよう

話題を変えます。性教育で使ったフレームを汎用版にしてみました。今度は、この汎用フレームを適用して理想の不登校の教育をお題に、試考してみましょう。

3つの人称を使ったフレームのフォーマットは図表131のような感じ。これなら汎用性が有りそうだな。

図表131

 ちなみに、この一人称・二人称・三人称の区分ごとのアプローチですが、「3-2-1シャドウプロセス」を参照しています。「3-2-1シャドウプロセス」は、心理療法や自己探求のコンセプトの一つで、カール・ユング(Carl Jung)によって提唱されたものです。関心のある方は、ぜひ、探索してください。

それでは、義務教育の視点と不登校教育の視点で、フレームに落としてみましょう。


図表132


 
ええ、3つのアプローチまで拡張すると発見・対話・提示といったコアとなる学びのキーワードが整理できますね。もちろん、義務教育も徐々に変わってきており、発見、対話、提示に向かっています。よって、ここには違いというより「教育が向かうベクトルがある」と捉える方が良さそうです。

では、義務教育と理想の不登校教育(そんなものがあるとしてだけどねw)の大きな違いはどこにあるかというと・・・

図表133

まず、義務教育の視点では、学校制度は大前提です。そこには、誰が教えても質と量が変わらない年齢別のカリキュラムがあります。必然的に、最終テーマが「集団の学びの意欲と体験」になってしまうんですね。 
 続いて、理想の不登校教育があると仮定して、生活思創の方法論で試行してみましょう。不登校と義務教育で最終テーマを対象関係にしたい。すると「個人の学び意欲と体験」で設定できそう。

 じゃあ、これって何?

図表134

 結局ですね。期間設定の教育に対して、脱期間の学習になるんだな。うすうす分かってはいたけど、学校の年齢別になっている既存のカリキュラムを追いかけるようなことをしない方が、未来的には良さそうだってことです。
 我が家的には、父は娘の算数とかメチャ不安になるけど、むしろ、学びに没入する感覚を自分で出し入れできるように環境をサポートすることが急所ってことなんでしょう。

 そう、脱期間って、一生モノっていう意味です。親子は学校よりも付き合いが長いわけだから、「脱期間のための学習」は、家庭生活との親和性があって、お互いの学びへの迷いが鎮められていいね。

 ここでもやはり、ネガティブ・ケイパビリティが求められるのだった。

 先の性教育試考を使って、少し押し込んでみると、「学びは個人の現場で起きている」ってことになります。すると、性衝動のような学びの衝動が理想って言えそう。なので、性体験と同等の学びの体験があるとも言えそう。ただし、親は現場から離れたところでサポートが原則なのだ。「分数の計算とかできるようになったら?」はタブーってことらしいw。

まずは、不登校の娘を持つ父は、生活の「見通しの良さ」が高まるのだったw 不登校になる理由は人ぞれぞれだけど、大まかにも目指したい子の学びの方向(=脱期間の学習)っていうのがあると思えるなら、やっぱり親も迷いから救われるな。


父「小説書く方は、最近どんな感じですか?」

娘「読書の合間に小まめに書いて、懸賞応募してるよ。今のところボツのみだけど・・・」

父「十分じゃん。村上春樹も書き続けるのがプロの条件みたいなこと言ってたぞ」

娘「誰?、むらかみはるきって?」

父「ファンタジー小説専門だと、そうなるのか」



◼️<おまけ>性教育の未来を、生活思創する

これは完全にヨタ仮説です。

ここまで書いてて「性ってAIとの対称性が強い」って感じたのでした。この辺りの無茶振りが生活思創の良さってことで、シラっと押し込んじゃうよw。

図表135

まず、性教育のベースは性の指向性は多様でも、身体的性別としての男と女の区分があります。これは二元論、デュアリティです。AIもベースはデジタル・テクノロジーなので0と1の二進法、バイナリってやつです。AIが進化する方向って、より人間に近い存在のはずだから、言い方を変えて「複雑な身体に向かう記号群」と置ける。で、性教育は先にも見たように、カテゴリー越境をしながら、社会、文化、人類学、倫理など、複雑さを取り込んでいるよね。すると、ここも言い方を変えると「複雑な記号に向かう身体群」と言えそう。互いに言葉を入替えできる関係と見立てました。

 今の性教育って学校のカリキュラムでは保健体育の世界に閉じ込められているけど、その実態は、コンセント、LGBTQ、セクハラ、文化的配慮までカテゴリー越境が爆発しているじゃないですか。
 するとですよ。いつの日か、性教育が「自然言語で身体から世界を説明するカリキュラム」になって、デジタル教育が「人工言語でAIから世界を説明するカリキュラム」になるとかね。学びを二大双璧な関係(どちらも互いに補い合う相補性を持つ)にまで行き着いちゃったりするかも? 当然ながら、その時は性教育とは異なるネーミングだろうけど。

デカくなった風呂敷をたためそうもないので、今回はこの辺で。

Go with the flow.


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