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ファッション的対話

「例えば?」と言う言葉を投げかけてくる人が苦手だ。わかっている。僕がカッコつけて観念的な会話を繰り広げる癖があるので、それを理解しようとするるために具体例を求めているのはわかっている。その人が、「例えば?」と聞くことで、僕の話を理解しようとしてくれていることは、十分すぎるくらいにわかっている。それでもやっぱり、「例えば?」と言う言葉は苦手だ。

自分の意見を言うこと、自分の考えを書いて他人に見せること、人に何かを伝えようとすること、ここには必ず、自分の考えを言語という人間のコミュニケーションにおいて共有されているフォーマットへ落とし込むことが求められている。ここに何か暴力性を感じる。

自分の思いや考えを文字に起こして、それを自分の目で読んでみる。その時に感じる他人事感、自分のこととは思えないあの何か釈然としない感じはなんなんだろうか。

自分の考えが、自分唯一のものだった考えが、言語という共有物へと変換されることで、他人に共有可能なものとして変身する。そして他人は、それを見て解釈し、僕がどんな人間なのかを推論し理解する。それはまるで、僕が着ている服を見て僕がどんな人間なのかを判断するかのようなものだ。

大胆なことを言うが、伝えると言うことは服を着ることに似ている気がしている。自分の考えを他人に晒すことで、自分のアイデンティティが形成されていく。フォーマルな考え、フォーマルな服装、カジュアルな考え、カジュアルな服装。

自分の考えを言葉にしたときの言いようがないあの他人事感。あれはやはり言語というものの共有性が関係しているように思われてならない。自分にしか理解できない内的世界を、言語によって翻訳することで他者に共有可能なものにする。その一方で、自分にしかわからない、という神秘、秘密は失われる。

自分の考えが、言語を通すことで、自分そのものではなくなり、あくまで1つの他者として変貌する。しかしそんな他者性を持った、自分の考えを表現している言葉を通すことによって、他人に自分がどんな人間なのかを判断されていく。

服は、当然自分ではない。それは初めから他者性を持っているものである。しかしそれを着ることで、僕がどんなイメージの人間かを発信し、さらにそれを他人に晒すことで、他人が僕について色々と考える。他者の目によって、自分のアイデンティティが措定されていく。

服は、人間の大切な部分を隠す。見られては困るところを隠す。それがセクシーさや色気を生む。見えないところがあるからこそ美しく、魅力的になる。映画の濡れ場は、一番大事なところを見せないからこそ美しい。サスペンスは、最後まで真相がわからないからこそ観客を引きつける。「見せない美しさ」なるものが人間は大好きなのかもしれない。バルトもそんなことを言っていたらしい。

「例えば?」という言葉には、見えないところを見ようとする欲望が垣間見れる。あなたは、あなたの考えという言語化された服を着ている。あなたは、誰かと話すことによってその服を一枚づつ剥がされていく。

「君が幸せを感じる瞬間っていつ?」
「映画館にいる時かも、あの雰囲気が大好きなの」
「そうなんだ、暗くて何が起こるかわからない感じ?」
「そんな感じ、ワクワクしない?」
「確かにね、例えばどんな映画見る時にワクワクする?」

「例えば?」に限らない。自分に向けられる質問は全て自分の服を剥がしていくような行為に思われる。質問されそれに答えることで、自分を覆う服が脱がされ、裸の自分というもっともプライベートなところへと相手が迫ってくる。

「自分の考え」という服が脱がせられる時、自分は相手の質問に答え、相手へ自分を晒し続ける。相手が自分のことを理解すると同時に、自分の服が一枚ずつ剥がされ、そして自分の核心、裸の自分へと近づいてくる。

「例えば?」に感じる暴力性とは一体なんなのか。それは、無理矢理自分の裸を見ようとしてくる奴らに似ているのかもしれない。「見せない美しさ」をすっ飛ばし、核心部分に最短距離で迫ってくる、あいつら。まだ何枚にも厚着をしており、順番に丁寧に剥がさないといけないのに、すぐにコートから下着まで全てを剥がそうとしてくる。

あるいは、「例えば?」と問うてくる彼らは、僕がどんな服を着ているのかを見誤っているのかもしれない。「例えば?」という言葉によって適切に脱がされる服、すなわち、具体例を通すことによって適切に理解される考えももちろん大いに存在するだろう。しかし、全ての服が一通りの方法で脱がされるわけではない。シャツとワンピースとTシャツが全く違う方法で脱がされるように。

そうだとしたら、「例えば?」と聞いてくる人たちの目には、実際には黒いシャツにブラウンのベストを羽織っているのにも関わらず、僕はTシャツを着ているように見えるのかもしれない。そしてそのTシャツの適切な脱がし方が「例えば?」だとすると、彼はTシャツを「例えば?」で脱がせようとしていることに関しては間違っていない。しかし実際に僕が来ているのは黒シャツとブラウンベストであり、それらにはまた別の脱がせ方、別の問いかけ方があるのだ。前をボタンで止めるタイプのシャツをTシャツのように脱ぐことはできるだろうか?難しい。できたとしても、肩のあたりが破けてしまう。

自分とは全く別の存在である服を着るということ。言語化によって自分とは別の存在となった思想を人に晒すということ。服を脱がせ裸へと迫るということ。自分の思想が理解され、相手が自分の考えの核心へと迫ってくること。ファッションと対話は、もしかして似ているのかもしれない。

よろしければぜひ