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料理再開のきっかけ

こんばんは。
ご訪問くださり、ありがとうございます。

今日のタイトル。
書こう書こうと思いながらそのまま、
書けずにいたので今日はそのことを書いてみようと
思います。

いくつか記事でもシェアしていますが、
30代半ば~後半にかけ私は働きながら両親を一人介護していました。
両親は私が30代の時に立て続けに他界しました。

先に母が亡くなり、その数年後父が他界しました。
よく、東京に行ってから料理を一切しなくなったと周りの
人には伝えてました。
確かに、東京に越してから一切料理はしなかったのは
事実です。
でも、よくよく考えてみたら、私、父親が亡くなってから
料理をほとんどしなくなっていました。

東京転勤が決まった時、私は実家を処分しました。
福岡の実家は、一人暮らしには十分すぎるくらい
広く(3LDK)、東京の住居は狭かったのもあり、
実家にあった荷物は自分の身の回り品以外全て処分しました。

そして、東京への転勤が決まったとき、
私は東京に長期出張(3か月くらい)しており、
出張期間中は忙しすぎて一度も福岡に帰省することもなかった。
そのため、転勤の辞令が下った際、他県在住だが同じ九州住んでいる
兄家族に実家の両親関係の片づけをお願いしていた。

母親、父親の遺品はそれこそ、他界した後兄と相談しながら
遺品整理は行ってはいたけれど、1軒の家全部をまるっと
片付けるとなると結構エネルギーがいる作業だった。

そのような状況の中での引っ越しということもあり、
福岡→東京への引っ越しの時は、ミニマリストか!というくらい、
荷物が少なかった。(よく男前と言われるww)

引っ越し業者の方に、これだったら引っ越し業者でなく
宅配便の方がよかったもですよ?と言われたが、
大型家具や家財の処分も一緒に行ってくださる業者だったので、
家財道具の処分の方が高くついたが、引っ越し料金という名目で
請求書を切ってくれたので私にとってはこの方が良かったのです。

荷物を極力少なくしたので、東京への引っ越しの際、
一切調理道具など一切無かった。
お箸やお茶碗などの食事するための道具もなかった。
お箸一本なかったという話をすると本当に引かれた。

どうやって食事していたの?とよく聞かれたが、
オンオフ関わらず外食やお惣菜で事足りていた。
コップもなかったので、熱いコーヒーが飲みたいと思ったときは
近所のコンビニで購入するという始末。
その後、コーヒーを飲みたいと思ったときに、わざわざ
外に出るのが面倒くさいという理由から、コーヒーと電気ケトルを
購入する。(購入する理由がそもそもおかしい。)

また、東京に越してきて少し経ち、生活に慣れてきたころ、
少しづつ調理道具を揃えて行きました。
揃えていく楽しさを感じつつも、いざ料理をしようとすると、
スーパーで何を買えばいいのか?分からなくなるのです。
料理の材料を買うことを考えることを放棄というか、
呆然としてしまうのです。
そして、外食や総菜で購入していたのですが、
毎回食事のことを考えるのが本当に億劫で、なんで何を食べたいのか?
を考えないといけないんだろう。
食事=テンションが下がるイベントでした。

それと並行して、時々ふとした時に思い出していたこと。
それは父親が亡くなる前日の出来事でした。
父親が亡くなる前日、父親に夕食の介助をしながら、
翌日の通院について会話をしていました。
その時の食事がとても気に入ったらしく、
翌朝も食べたいとすごく言われていて、いつも以上にご飯を
食べてくれていました。
その夕飯後、父親の体調が急変し救急車で運ばれた後、
そのまま帰らぬ人となりました。
直前まで一緒にご飯を食べていた人が、数時間後に亡くなるなんて。
と、担当医の先生からその日はいつ来るか分からないと何度も聞いていたけれど、平凡な日にそのようなことが起こるなんて思いもしませんでした。

そのことがきっかけに、食に対して執着があまりなくなった私は、
ますます執着をなくし。
そもそも、食事をすることが面倒くさいと思うようになり、
スーパーに行っても、何処から手を付ければいいのか分からない。
と立ちすくむ状態になっていきました。

その状態からどうやって、今のように食事を作ることを
楽しめるようになったのか?

一つは、今年の夏に大人の合宿と称したイベントに参加し、
そこで皆で料理したことにより、料理って楽しいという感覚を
思い出していきました。
元々料理をすることは好きです。
私の作る料理は好評で家族によく褒められてました。
二つ目は、たまたま今年の夏に、77回目の終戦記念日というニュースを目にし、あぁ父親が生きていたら77歳かぁ。
ということは、父親が亡くなって6年経ったんだと思ったとき、
それが早いか遅いかは人それぞれだと思うけど、料理する。
食べること。に対する億劫さは、何となくそこに起因し、解除されたような
気がするのです。
手当たりしだい、その原因が分からずでまぁまぁ手こずっていただけに、
そこに気づけたことはとても良い経験でした。

ちなみに、毎夜仕事を終え、だいたい21時とか22時とかに近くに
コンビニで夜ご飯を調達するという習慣からも解放された。
(稀に本当に忙しく、ご飯がおろそかになることもあるけど、
そこは何事もバランスですね)

少し大袈裟かもしれないが、
ここ最近の食べることや料理を通じて、生きることの優先順位が
ちぐはぐだったなかと思わずにはいられない。

ひょんなことから、食に対して億劫さが生じ、
その億劫さもひょんな出来事でひょいっと抜ける。
なんか、時間薬もそうだけど、今どんな状態でもそれは永続しないし、
それを抜ける方法は何もしなくても勝手に抜けていくこともあるんだな。
と思ったのでした。

おしまい。


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