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[ない]が[ある]になった瞬間




[ない]が[ある]になる瞬間





[こんな自分ダメだろ]が

[こんな自分もいいじゃん]になる瞬間






それは
わたしにとって

些細なことまで
ひとつひとつ大切に

拾っていきたいもの






noteを始めて気づけば1ヶ月。



もうそろそろ
毎日書くのもやめようかな

そんな風に思った夜




次の瞬間ハッとしたわたしがいた。





あれ、

そういえば
あんなに怖かった

自分の考えてることや
想いを表現することを

外の世界に出すこと、



するっとできてんじゃん。





もちろん

ゼロじゃない。

ゼロじゃないけど

あの頃に比べたら
全然薄い。



かるくなってる。



そしていつのまにか

うっかり1ヶ月も続けてしまってる。





昔、
インテリアブログを書いていて



毎日沢山のひとが
記事を読んでくれていた。



だけど
自分の想いを書くようになった途端に
読んでくれる人は激減した。


望まれているものは
ちがう、

痛いほどわかった。




だけど
わたしの興味は
もうインテリアよりも


もっとオタク的な

こんな風に毎日書いているような
ひとの内側についてのことで
いっぱいになってて


それまでと同じように
書けなくなってやめてしまった。





それから
夢だったうたを
声が出ないところから始めて


声や音楽と
内側の繋がりみたいなものも
研究したくて


そんなことを
こちゃこちゃと実験しては書きながら

細々とうたのYouTubeと連携させて
想いを綴ったブログを書き始めたとき


批判コメントがついた。







歌声が鼻につく

あなたのうたが好き、は
好きとは言えない、

下手くそ



要はそんなことを
長文で書かれていた気がする。




自他共に認める
最強の打たれ弱さを持つわたしは

そっとコメント欄を閉じて

そのままブログもやめてしまった。



それから
批判が怖くて
外に向けた表現をしなくなった。

たった1件の批判コメントで、

誰かの思うツボ、


そんな風に思われても

頭では理解できるけど
怖くて悲しくてたまらなくなって

わざわざ
傷つく可能性をつくる必要はないなって

表現を外に出さないことを選んだ。





わたしの
凄まじい打たれ弱さについては

言いたくなることや
アドバイスなどなど

ツッコミどころも満載だけど

大丈夫、
もうそれらの言葉は
10周くらいは聞いてる




コイツに
なにを言っても無駄なのだ




"でもそんなの
社会で生きていけないですよね"


何回も聞いたその言葉に
わたしも内心深く頷いてきたのは事実だ


だけど
わたしにとって
心地わるい言葉だと気づいた時、


もうこれ以上、受け取らないと決めたんだ



間違っててもいい、

わたしは私の思うように生きてみたい、と。






そうやって隠れながら
強い意志だけは手を離さないで
進んできたいま、


そんな自分の
絶望的な打たれ弱さに


わたしは希望を抱いている。




実際わたしの
この部分を知って



聞き飽きた言葉を
言ってくる人

=普通の人

受け入れて
それでもいいじゃんと
そばにいる人

=相当な絶滅危惧種



というわけで
人間関係の取捨選択は
あっという間に完了できること




そして
そんな人間関係からは

溢れる感謝しか感じられないこと



そうして何故だか

こんなわたしでも

社会の隅っこで今日も
豊かにしあわせに暮らしている、

そんな実証を得られたこと




うん、

結構メリットばっかりだったりする。





逃げることは

自分がそれを
真っ直ぐに捉えられていたら

選択していいと思ってる





それでも

自分の調子を
タイミングを

細かく見ながら

やりたい時に
勇気を出してやろうとする自分を
知ってるし

そんな自分を信じてるから

"その時" を
待てる自分が

結構すきだったりする




そうやって生きてると

自分以外の誰かにもそうやって思える。


そんな言葉をかけられて育った笑顔を

わたしは目の当たりにしてる。





ああ、

まだ打たれ弱い自分は

胸を張って好きだと言いきれないけど


こんな
思考を展開する


卑屈だったり
捻くれ者な部分がある自分のことは

好きだなって思えるようになった




だってそれは

紛れもなくわたしの要素だから。




直したかったし
消したかった


だけどほんとは

卑屈な部分があるまんま
捻くれ者な要素を持ったまんま


そんな
めんどくさいわたしのまんま

清々しく生きていたかった




そして


"その時" がきて

えいやってしたから


こうして生まれた文章も

存在することをゆるされている。






冒頭にもどり

自分の言葉や表現を
外に出すということを

するっと
いつのまにか続けられていたことは

紛れもなく
わたしにとっての成長であり  


わたしにとっての喜びだ





ハッとするまで

そこに無かったものが

見つけたことで
認識された途端

ある、に変わった。




そんなんじゃダメだって

言われても大丈夫。



そんなんでもダメじゃない、

そんなんでもいい自分を見つけたいと、

望めばいいから。




打たれ弱いのもわたしにとって
ダメな部分じゃなくて

わたしらしさであり

きっとこれから
見つけられる希望がそこにあるんだろう。




そうして
ちらっとこんな文章を
目にしながらも


自分の考えや感覚とは違うなって
感じながらも


ただそれだけだなって
素通りしてくれる


それは
わたしにとって

わたしの存在を
ゆるしてくれていることと同じで

そんな人たちが
noteという場に集まっていることに


ありがとう、


そんな気持ちがスッと浮かんだ。




それこそさっきまで


そんな人たちのことを
わたしは認識できてなかったから

わたしの世界に
[ない]はずだったのに

見つけた途端、
[ある]になった瞬間だ。




こうやって
ドキドキしながらも

ちょっとずつ

昨日までなかった[ある]を見つけて

わたしの世界に映していきたい。





焦らず、ゆっくり、


わたしのペースで。







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"自分と真っ直ぐ向き合うこと" でより満たされた日々を送れるようなヒントになったらとこれまでの研究を言語化して公開を始めました ♔ 繊細で不器用で生きるのが難しい、そんなふうな私でもひたむきに今を生きてる…そんなことを表現できたらなと思ってますꪔ̤̫