SENSE Labo
生き辛かった私がありのままで生きながら自分の内側を豊かにできる方法を模索して見つけた方程式♔ 現在は更に外側に派生していくことを実験中˖⋆ デザインと言葉で創作ꪔ̤̫
実験、研究、検証の道のり✎ܚ SENSE:意識,感覚,気質など人の内側の個性の要素 各々に備わっている見えない部分であり、その人その人の個性の要素、として研究中♔
人生を変えたいなら 日々の小さな選択決定を 変えていくのはどうだろう なぜなら 人生は 日々の小さな選択決定の 積み重ねでできているから そんな 単純すぎる思いつきが 絶望から希望を見つけた きっかけだったかもしれない。 やみくもに 選択を変えていくのも ちがう気がして だったら 自分の感覚を すべての"指針"にすることにしてみた。 だけど まずは 自分の感覚が なんなのかわからない。 ということで 自分の中の "気持ちよさ"を 細かく見つめること
わたしは 数年前から 人生を "自分をゆるしていくゲーム" と設定して 日々攻略に励んでいる。 始めてすぐは ゆるすも何も まず自分のことが 何も分からない段階 自分、 というものの 輪郭もぼんやりしているし 自分の許せない部分さえも とらえきれていない状態。 探り探り進んで ゲームオーバーを 繰り返しながら ちょっとずつ 自分という キャラクターの属性を知っていく。 すべてのステップは 内側の作業、というもので 攻略していく仕様にした。 ちなみ
自分の感覚について 深掘りしていくうちに わたしにとって多くの場合、 "気持ちよさ" が自分の想いや 望みの核をとらえることや 進む方向、選択決定の際の "指針" になることに気付く。 また、 その気持ちよさの中にも 大きく分けると2種類あって それらを見分けるコツを探究したりもした。 そうして実際に 自分の中の核の想いをとらえたとき、 その問題がたとえ 実際に解決していなくても 内側がスッキリすることで 問題自体がどうでも良くなってしまう なんて
初めてスコーンを焼いた。 たった それだけのこと、 かもしれないけど わたしの心は 静かに踊った。 田んぼに囲まれた 田舎で育ったわたしは 幼い頃、 近くに友達の家なんてなくて 大体、 本を読むか 2時間サスペンスを見るか 田んぼ周りを走る、 そんな日々を 過ごしていたように思う。 ただ 長期休暇がやってくると むくむくっと お菓子作りがしたくなって 昼間空いた台所を陣取って いろんなものを作っていた。 きっちり計量することが ときめきポイントで
[ない]が[ある]になる瞬間 [こんな自分ダメだろ]が [こんな自分もいいじゃん]になる瞬間 それは わたしにとって 些細なことまで ひとつひとつ大切に 拾っていきたいもの noteを始めて気づけば1ヶ月。 もうそろそろ 毎日書くのもやめようかな そんな風に思った夜 次の瞬間ハッとしたわたしがいた。 あれ、 そういえば あんなに怖かった 自分の考えてることや 想いを表現することを 外の世界に出すこと、 するっとできてんじゃん。 もちろん ゼロじ
私がわたしのまんまでいると、きみは癒されるという。「卑屈で捻くれ者な私だよ?」そう反論すると、「だけど素直にそんな自分と真っ直ぐ向き合うじゃない」ときみは答える。「だって私は卑屈で捻くれ者なわたしもすきなんだ」ーーその言葉にきみは満足そうに微笑んだ。
学生の頃 自分がどうやっても 勉強や恋愛において 勝てない、と思っていた相手に対して わたしは密かに 相手がうまくいかないことを 願ってしまっていた。 だけど そんなものは 叶うことはなく、 大抵の場合は 逆にどんどん 相手に敵わないというシーンを 目の当たりにしていくものだった。 この時のわたしは 自分の望みを 「他者が」うまくいかないこと としていたけど、 本当に望んでいるもの =本来の望み =自分がしっくりくる想い というのは 「自分」が主体の
目が覚めると まだ起き上がるには時間がある そんなときは 自室にこもって 文章を赴くままに書いてみる そんな習慣がなんとなく 最近出来上がってる。 今朝もそうだった。 そろそろ 動く時間だ すると 見知ったアイコンが 目に飛び込んだ。 昨日電話で お互い何故かnoteに最近アカウントを 作ったことが発覚した。 こんなにSNSが盛んな時代に。 今、始めるというタイミングに。 Twitterやインスタ、 YouTubeじゃなくて note、に。 いろんな意
時々ふと うっすらと靄が 全身を包んでいる感覚に 囚われることがある。 生き辛くて 毎日苦しくて 1日をやり過ごすのが やっと、だったあの頃 それから 数年かけて 自分と丁寧に向き合うことで 生きるのがラクになって 自分でも驚くくらい 内側も外側も豊かになった。 あの頃のように 喉から手が出るほど 欲しいものなんてもうない。 毎日が ありがたくて 穏やかで 充実してる。 だけど 時々ふと、感じる。 注意深く見つめないと分からないような ちっちゃくて些
イライラしたり もやもやしたら 止まる そんな単純なことが いちばん難しかったりする だからこそ ひたすらに シンプルなことを 積み重ねてみる いつだってそれは "自分の心地よさ"を追求するため 新しいわたしの世界を つくるため
本当に望んでいるものって なんだろう 感覚、意識、、 と続いて着目したのは "望み" 自分の人生を振り返ったとき、 幼い頃に望んでいた夢たちが 現実としてかなり叶っていることに 気づいた。 だけど その割にその地点のわたしは しあわせを感じられていなかった。 そのとき とんでもなく 大切なことを見つけた気がした。 現実がどんなに叶っても 自分の内側が喜びや満足感を 感じられていなければ わたしは しあわせじゃなかった。 物質的には しあわせな状態、 で
内側に意識を向けて 感覚に耳を澄ませる まずは 基本的な日常から それはきっと とても些細なこと だけど その積み重ねが土台となって 自分基準の わたしだけの 心地いい毎日が 出来上がってゆく
"自分の機嫌は自分でとる" 自分の感情に振り回されて 支配されるまで至っていたわたしが そんなことを習得できたのは ご機嫌じゃない自分をゆるしたことが きっかけだったかもしれない "疲れてるの?" そりゃ人間だからね 生きてるだけで疲れるのだ そういえば 疲れた時に 罪悪感なく「疲れた」 と言えるようになってから 格段と気持ちがラクになった。 昔は 疲れたなんて言える立場じゃない そう思ってた。 その日の働きを 他の人と比べていたからだ。 いま
自分の感覚で選んでいく といっても 自分の感覚が分からない そもそも 自分の感覚ってなんなんだろう 好き、嫌い 楽しい、つまらない 心地いい、心地わるい 気持ちいい、気持ちわるい 隣の人が楽しくないことが わたしにとっては楽しかったり 喋らなきゃと思いがちな沈黙も この人とはなんだか心地よかったり そうだ、そういうやつだ それからわたしは 自分の感覚に耳を澄ませることを はじめた。 "いま、わたしは何を感じてる?" 初めから その感覚を言語化するのは
心地わるさ、を見つけたら 心地いい、を知れるチャンス ということは 見るべきものはいつだって 外側ではなく 自分の内側にあって 自分という存在さえあれば しあわせであれるということ だけどその先に 大切な誰かといる時間の 心地よさに触れたとき 豊かさをまるごと 奥底から 感じられるときが来る
あの頃 頭の中は四六時中 自己否定と自分責めで煩くて 変わる確証もないまま 内側の作業を ひたむきに続けた 誰の目にも映らない 地味すぎる内側の努力は 数年を経て わたしの中に ゆるぎない穏やかな世界を 現してくれた