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戦争だ! なんか理屈つけて売り込め売り込めー旅行編

 戦争が始まると、あらゆる社会生活が停止してバケツリレーやら増産やらしなければならないイメージがありますが、明治維新この方、戦争続きだった大日本帝国臣民は、戦争が始まった程度では慌てませんでした。
 それよりも、これを商機ととらえる動きが、特に日中戦争初期には顕著でした。今回は所蔵品から、旅行関連の資料を選んでみました。
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 当時から、長野県平穏村(現・山ノ内町)の湯田中温泉と善光寺をつないでいる長野電鉄は、1937(昭和12)年7月からの日中戦争中も、さまざまな名目で平常通りに団体旅行をPRします。1938(昭和13)年まではまだまだ勝ち戦、戦争もじき終わるという余裕が国内にもあった時期のものです。

1938年4,5月の団体募集

 前線の将兵を思えば「弾丸除け」と「健康守護」は大切。「大御心に副い奉らんと雄々しく戦う我等の将士の武運長久」とくれば文句なし。ついでに長野県諏訪地方の御柱祭や佐渡旅行もPRしています。

1938年5月に開眼供養
「殉国将兵を弔い」と強調

 こちらは個人が一念発起して建てた高さ108尺の観音像が紆余曲折を経てようやく完成、開眼供養参詣団体募集のチラシです。泊りがけではありませんが、自社経営の上林ホテルでくつろいでもらうというもの。「仏前に額づき殉国将兵を弔い武運長久を祈願」という、殺し文句で誘客です。

なぜか7月にも
「銃後国民の責任」と来た!

 7月には完成したことを受けた結願供養式を企画。「国運隆昌皇軍将士武運長久を祈願しましょう」とし、合わせて志賀高原で「雄大なる自然に接し浩然の気を養い国民精神総動員に耐えうる心身を鍛錬するこそ銃後国民の責任と考えます」と。なるほど、職場でこの通りのことを言えば堂々と休んでいけると、そういうことですね! 気を見るに敏、当時の最新標語を取り入れています。

1938年夏のものと推定
愛国行進曲も取り入れて

 こちら、年も月も不明ですが、愛国行進曲が発表されたのが1937年の暮れのこと。「緑輝く志賀高原」で汗を流すのが「心身鍛錬の国策線に副う」とあることから、7,8月ごろ、温泉客が減る時期の半額サービスと推定。1939(昭和14)年に入ると、突然世の中の雰囲気が悪化していますので、やはり1938年のものと推定します。飛行機も入れてアイキャッチにも気配りです。

1938年10月のチラシ
定番の武運長久が温泉マークをカムフラージュ

 こちら、武漢三鎮の攻略とあり、1938年と確定。「武運長久を祈願し健康を増進し、ガッチリ銃後を護るこそ私共の使命で御座いましょう」と、一部の隙もりません。菊がみごろというのもきちんと入れて。

とにかくPR続行

 こちらは、特別な企画ではなく、沿線をまとめて紹介しています。武運長久祈願に!は欠かせません。象山神社前、とあり、神社の完成が1938年11月3日ですので、ちょうど農作業も一息つく秋頃のもの。特別な企画を打たなくても、大勢の人が利用してくれたでしょう。
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 最後に、軽井沢町観光課のパンフレットです。日中戦争中の秋ですが、「新東亜建設」とあるので、1938年か1939年ごろのものでしょう。

「祖国愛と健康を求めて」とありますがちょっとつながらないかも。

 「離山の新秋」として若いモデルを配置。「大陸的な景象を俯瞰して遥か戦線に在る兄さんを想う山頂のひととき」という写真説明…センスを利かしたつもりでしょうが、うーん。

このフレーズは無理があるんじゃ…いかがでしょうか。
中面のフレーズです

 担当者も表紙のフレーズだけでは国策線が弱いと思ったのでしょうか。中面にも一工夫。「新東亜建設」「愛国心昂揚」と入れていますが、まあ、そんなことは関係なく、軽井沢は今も昔も人気ですね。


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