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アッツ島山崎部隊による初の玉砕、伝書鳩が伝えるとのデマ拡大で逮捕

 1943(昭和18)年5月30日に発表された、アッツ島守備の山崎部隊玉砕の報。大本営が初めて「玉砕」という言葉をつかい、その後マキン、タラワでも使用し「全員壮烈な戦死=玉砕」としみこませた、その最初の悲報です。表題の5月31日付朝日新聞は、一面横ぶち抜きで掲載し、後日、2500人余の全将兵の名前を掲載したのに続き、戦死者ほぼ全員の顔写真を掲載した「軍神山崎部隊」なる本を出しており、これによりますと、長野県からも将校3人、下士官兵20人の戦死を数えています。

「軍神山崎部隊」より、長野県の戦死者

 朝日新聞は「一兵も増援求めず」とありますが、実際は増援を送ることも撤収させることも無理な状態で見捨てられたのが実態でした。それを糊塗するように、捕虜になるのは不名誉だから死ぬまで戦うとした「戦陣訓を実践」と称揚しています。

 そんな情報操作もあり、戦時中はアッツ島のかたきを打て、と戦意高揚の材料になっていました。
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 そんな中、1943年6月26日の信濃毎日新聞に「造言に惑う勿れ(なかれ) 噴飯の“アッツ島から伝書鳩”」との見出しで、7人が逮捕されたとの記事が載ります。著作権切れであり、全文転載します。(漢字、かなは現代のものに適宜直し、実名の報道をすべて仮名にしました)

 【東京】アッツ島皇軍勇士の玉砕に一億国民は感奮し勇士の心を心として生産増強に米英撃滅のたくましき進軍を進めている折、最近「伝書鳩によってもたらされたアッツ島山崎部隊最後の状況」など虚構の手紙を作りこれを盛んに流布しているものがあり、当局で内探の結果、このほど日本橋区(略)会社東京支店事務員A(21)ほか6名を深川平野署で検挙した。
 手紙はAの想像をたくましうしてでっちあげた噴飯もので、軍旗を捧持しない山崎部隊が軍旗を焼却する状況や当時現地は雨が降っていなかったのに小ぬか雨が降っていたなど全くでたらめを述べている。Aから出た手紙は口頭やあるいは複写されて著名の士のもとへも送られ銃後国民生活を惑わせており、陸軍省報道部、警視庁、憲兵隊ではかくのごとき造言蜚語に惑わされることのないよう、次の通り注意を与えている。
 最近京浜地方に「アッツ」島から伝書鳩にもたらされたという〇〇少尉の手記なるものが流布せられているが、右は全くの虚構欺瞞のものである。文は冒頭に山崎部隊長が突撃前に軍旗を焼却し奉る情景を述べ、中ほどで東京駅の出発を回想し、最後に小ぬか雨が降る中で伝書鳩を飛ばすところで終わっているが、山崎部隊は軍旗を拝受しておらないし同部隊は東京から出発していない。また現地ではその当時雨は降っておらなかった。ことに最大限400キロの飛翔距離しかない伝書鳩であることを考えるとき、これを信ずるものの常識のなさが誠に噴飯ものである。
 この造言はAが山崎部隊玉砕の発表されるや、突撃寸前の情景を想像し、あたかも山崎部隊の将校の通信文なるごとく作成し、これを6月4日、勤め先のB(20)に提示したところ、Bはこれを複写し、翌日勤務先にて同僚のC(34)、D(35)、E(25)、F(19)、G(34)など回覧。Cなどは更に複写の上、家族友人などに流布し次第に広がるようになったものである。7人は造言蜚語の件で警視庁において逮捕、取り調べを受けている。
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 以上で記事は終わっています。戦争の報道を、自己顕示のために利用しようとしたのでしょうか。戦時下に玉砕報道に合わせて作り話をつくって流布するなんて、この時代にもそんな人がいたんだなーと感じるだけですが、それを全力で阻止しようとした側の意気込みが、やはり情報を統制し、政府や軍が思うようにしか使わせないという、この時代の雰囲気を感じさせてくれます。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。