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長期にわたる戦争は、軍隊生活にも影響ー訓練すれば痩せる状態で本土決戦呼号

 中国に駐屯していた関東軍による謀略、1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件で満州事変が始まって以来、陸軍独断の中国への侵略行為は断続的に続き、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した北支事変は上海にも飛び火。海軍も含め、日中両軍が全面的にぶつかり合う支那事変=日中戦争となり、その最中に太平洋戦争まで始めて、1945年9月2日の降伏文書調印まで、長い戦争の時代が続きます。
 その過程で、既に日中戦争のうちに民間への金属や綿の割当減、パルプ輸入減少と情報統制に伴う新聞や雑誌の統合・減ページなど、さまざまな「物不足」が発生します。民間には、日中戦争3年目の1939(昭和14)年ごろからはストックを食いつぶし、例えばブリキのバケツ代わりに木製バケツ、鏡餅代わりに陶器製鏡餅といった代用品が登場します。が、その影響は軍隊にも及んでいました。
 陸軍の食器といえば、アルミやアルマイトを使っていましたが、これが陶器に変わります。時期は不明ですが、官庁で金属回収を始めた1940年ごろに、同じような対応が取られていたのではないでしょうか。海軍もアルマイトを使っていましたが、陸上の海兵団は陶器製に切り替えられています。

いずれも陶器製の左から飯椀、皿、汁椀、湯のみ
重ねて保管するとこんな具合
昭和初期、松本市の歩兵第50連隊で見学者と食事。食器はアルミ製か。
戦後品のアルミ食器。代用品になる前は、こうした雰囲気でした。

 複数の窯元が代用食器作りにかかわっています。また、戦時下で売り物とするわけではないので、通常なら商品にならないようなゆがんだものも見られます。

厚みがあり、丈夫さ優先か
へりのゆがみなどは許容範囲

 物不足は、食器の代用品化にとどまらず、兵営の食生活にも影響しています。それが如実に表れた現象の一つが、兵隊が通常のごはんでは足りずに栄養を補給したり酒を楽しんだりする「酒保」の切符制導入でした。

昭和初期、長野県松本市の歩兵第50連隊の酒保。菓子袋や椀が見える。

 下写真は、1944(昭和19)年7月6日に編成された中部第二十二部隊の「物品購入切符」の未使用品です。有効月が2月なので、1945(昭和20)年2月用のものでしょう。

公布前の物品購入切符
左側が食品、右はたばこや酒、特配の切符

 購入切符が出る前は、数量制限なしでお金がある限り、飲食が可能でしたが、このころは切符と代金を合わせて出さないと購入できない仕組みでした。食品の種類もうどん、パン、干菓子、生菓子となっていて、一度に変える量も制限。酒も清酒のみ1合だけです。そして、切符は「1号」「2号」と区別し、1号が前半用、2号が後半用と、使える時期も限定されています。

1号は1日から、2号は16日から使えると説明、1回の購入量も制限。

 また、この切符は元々は軍隊用のたばこ「ほまれ」を10個まで割り当てていましたが、切符の注意書きに「時に依り変更することあり」と明記されていて、この2月は5個までに半減したようです。未使用なのに右側上下が切り取られたように見えるのは、そうした調節の結果でしょう。
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 鳥居民の「昭和20年」によりますと、食事もかつての面影はないようで、軍事教練をしても栄養不足でやせていく一方なので、ある指揮官は野外に兵を連れ出し、昼寝をさせたということです。これが、本土決戦を叫ぶ軍隊の実情でした。

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