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戦時下、女学校から国民学校まで、女子は「なぎなた」で鍛錬。そして占領地の南方でもー大東亜共栄圏の裏を見る思い

 表題写真と下写真は、長野県伊那町にあった伊那高等女学校(現・伊那弥生ケ丘高校)の1942年度の卒業アルバムより、「耐寒鍛錬武道」の一枚です。表題写真はニューラルネットワークのAIと手作業で色付け加工してあります。なぎなたは「軍国の女」としての精神修養を目的に「なぎなた体操」として取り入れられたとされ、長野市の長野高等女学校(現・長野西高校)では1934(昭和9)年から始めています。また、国民学校でも行われた写真が話題になったこともあります。

色付け前の元画像。後方で正座で待機するのも辛かっただろう

 こちら、収蔵している当時のなぎなたです。長野県の学校ではありませんが、長さ183センチのしっかりしたもので、千葉県の印西実科女学校(現・千葉県立印旛明誠高等学校)の生徒が使ったものです。

全長183センチのなぎなた
「印女校」と焼き印が入っていて由来が分かりました

 以下、「少年たちの100年ー信州中等教育の歩みー」(信濃毎日新聞社)によりますと、長野高等女学校では夏も冬もはだしのまま、講堂の床に正座して先生を待ちます。十三歳から十五、六歳の子どもたちですから、壁にかかった重さもさまざまななぎなたの中から、なるべく軽い物を手に入れようと競ったということです。

手にしたなぎなた

 なぎなたの授業は厳しく、気合をかけて模擬試合をする。先生のことばもいつもと違い、「座れ」は「下へ」といった調子。気合を掛ける時には「もっと大きな声を出せ」が口癖の教師が、生徒がちょっとでも騒ぐと「講堂は同情だ」と怒鳴る。1941(昭和16)年まではブルマだった体操着は、翌年からモンペに変わっていました。

なぎなたの切っ先

 このなぎなた体操にどんな意義を認めていたか、信濃教育会帰還し「信濃教育」694号の「薙刀道の神髄」と題した論文があり、激烈に「身を捨ててこそ生くる道あり」という教えを説き、「武道こそが、祖先が身命を捧げて国体を護持し来たる道なれば…武を修練する事に於いてのみ、祖孫一体の血は流れ…肉体は会得しうる…。外柔内剛、強く優しき大和撫子の本領は発揚せられ…国体は体得せらるべきものなり」などとしました。当時盛んに言われた「国体の護持」のため、まだ幼い女学生まで、こうした鍛錬をさせられたと位置づけられます。
 敗戦直後、松本市の松本高等女学校(現・松本蟻ケ崎高校)では、なぎなたの刃の部分を切り落として単なる棒切れにしています。(以上、少年たちの100年より抜粋)「軍国の女」との決別であったのかもしれません。
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 そんな精神性を持った武道です。大東亜共栄圏として占領した各地において、実施させていた形跡があります。

写真週報第340号(1944年9月27日発行)より

 「東印度にも独立」「張り切るジャワ民衆」とありますが、あくまでも小磯首相が「公約した」というだけ。しかもそれは彼らの日本の軍政への協力という「彼らの努力の賜物である」「民衆は独立の日を待望しつつ、いよいよ盟主日本との共生同死の決意を固め、米英撃滅に邁進することを誓っている」とあります。独立をさせるとしつつ、盟主日本に従っていくことだけを求めているのが明白です。これは、満州国と同じ、傀儡国家独立の口約束に過ぎないことが、明瞭です。対等の仲間とは考えていないのです。

女子にはやはりなぎなたを指導

 写真説明には「女子教育も伝来の風習を尊重しつつ、全般に亘り世界無比の日本精神を植え付けるように細心の努力がはらわれている。薙刀操術から日本精神を学び取ろうとしているジャワの女学生」とあります。「日本精神を植え付ける」というあたり、いくら風習を尊重などと言ったところで、単なる同化政策にすぎないでしょう。そして日本精神とは、結局「共生共死」、さきほどのことばを借りれば「身を捨ててこそ」というところでしょうが、それは天皇のため、日本のため、ということになるでしょう。

 大東亜戦争という呼称を使わないのは、こうした「日本を新しい盟主とする新たな植民地体制」をごまかす言葉にすぎず、この言葉を使うことが、その戦争目的を肯定する思いがするからなのです。ぎこちないなぎなたを持たされた女学生の思いは、いかばかりだったか。

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