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「パーマネントはやめましょう」って言い続けたけど、押さえ切るのは無理なことでした。新聞投稿で論争も。

 「パーマネントはやめましょう」という標語というかスローガンというか運動というか、そういった言葉が登場したのは意外に早く、日中戦争が始まった1937(昭和12)年ごろからでした。贅沢を排撃する風潮の高まりに合わせて、婦人団体やら生活改善やらで活動したようです。しかし、効果はどうだったか。それは、パーマをかけることが、なぜ贅沢なのかー既に一般に広がっていたーを誰も説明できなかったからでしょう。国民精神総動員運動の手持の資料を調べましたが、なかなか見つけられませんでした。
 次にパーマネントをやめさせようという機運が盛り上がるのが、1939(昭和14)年の電力不足のころで、同年6月16日の国民精神総動員委員会では、学生の長髪、ネオンの禁止と並んでパーマネントの禁止も決定します。

節電のため、寝る時の電気消灯を呼びかける長野県松本警察署などのチラシ
1939年9月のもので「電気を消して銃後報国」と。

 パーマネントが目の敵にされたのは、洋風であること、電気を使うこと、お金持ちに見えるからーといった感じで十分な説得力もなく、なかなか浸透するものではなかったようで、1940(昭和15)年8月29日の信濃毎日新聞夕刊の読者投稿に「電髪(パーマネント)廃止論」が載っています。著作権切れで転載します。
 「▼一時影を潜めかかったパーマネントが又最近ぶり返してきた。あの藁屑をたたいた如き百舌の巣の如き頭を振り立てて颯爽として肩で風を切りながら往来を闊歩する御勇ましき御姿を拝見すると身体に寒気がする。▼こんな頭髪は法令で取り締まる前に自ら進んで廃める事は出来ぬだろうか。いな全国一の教育国に生を受けた信州女性なら率先してパーマネントの廃止はできるはずだ。この問題は本人はもとより父兄達にも大いに考慮して頂きたい問題である。我が娘の又妹の造作の悪い顔をカバーする為に父兄達がパーマネントを掛けることを奨めているような事実をしばしば見聞するのは遺憾至極である。▼全信州の現在パーマネントを掛けつつある女性方よ。本日限りパーマネントの代わりに頭に電髪停止令をかけてください。お願いします。しかし、どうしてもパーマネントを掛けなければ非常時局下女性として銃後の守りの完璧を期しがたしと仰せられるならば私もこの提案を潔く撤回しよう(松本NT生)」

パーマネント廃止を呼びかける投稿

 パーマネントをやめさせる理由が「身体に寒気がする」しか上げられなかったようです。そして、この提案には9月3日、反論が飛んできます。
 「▼松本のNT様、29日付の御説を拝見致しました。あの藁屑をたたいた如き百舌の巣の如き頭を振り立てて颯爽として肩で風を切りながら往来を闊歩する勇ましき姿をご覧になって寒気がなさるそうですが誠にお気の毒と存じます。初めにお断りしておきますが私はパーマネントを一度もかけた事がありませんが、パーマネントはよいものだと思って居るものです(極端なものは別として)。▼この頃は尚更の事、女の人達も非常に忙しくなって参りました。以前のように髪を結うために30分、一時間、あるいはそれ以上朝の忙しい時間を費やすわけにはゆかなくなりました。それは誰のせいでもありません。時勢がそうなったのだと思います。その時勢に合う様にパーマネントが出てきたものと考えます。▼パーマネントの良い所は、一度掛ければ長持ちが致します。ですから、毎朝時間をかけずにきれいになります。髪の中に何も入れませんから頭が軽くて気持ちが良くて活動的です。今払底のピンもあまり必要がなく髪を洗うのにも手間がかかりませんから自然発生的です。そのうえおっしゃる通りに造作の悪い顔をカバーできますならこんなよい事はありません。只、そのために電気、お金等が入用です。パーマネントの長所を考えましたら短所は僅かだろうと思います。▼あれがいけない、これがいけないと非難ばかりしていないでどうしたらもっとよくこの時局下のほんとの日本人んになれるだろうか、たとえば新日本の女性の髪としてパーマネントをいかに理想的に改善すべきか、ということなど考えてお互いに自重し合って進んでいきたいと存じます(MT)」
 このご意見に、MT生が再び意見しますが、論点ずらしも多いのでようやくしますと、極端なものとそうでないものの見分けがつかないから、この際全国で起きている廃止の声に真剣に耳をかたむけてと、世論恃みの結論になっています。
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 このころの信濃毎日新聞の記事を見ますと「パーマネントを見ると癪に障る」として岡谷市役所の社会課長が女子職員のパーマを禁止させています。いろいろ言って女性を支配したいだけでは、と感じてしまいます。長野県は1940(昭和15)年、自粛標準形を決定し、業者と県で守るように「美容自粛連盟」を結成させました。
 その後も、パーマをやめさせることで「軍事訓練や心身鍛錬の体制整った」(1941年11月14日夕刊)、銃後の緊張をかき乱すとして諏訪署がパーマをした人の住所氏名を出させる(1942年6月9日夕刊)など、さまざまな圧力が忙しい時局に行われます。
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 それでも、静岡県勝間田村(現・牧之原市)の1943(昭和18)年7月1日の生活改善実施要項では、結婚改善実行として島田髷とパーマネント廃止と上がっているので、いろいろ言われながらも続いてきた様子です。

勝間田村生活改善実施要項より。パーマが存続していた証に。

 しかし1943(昭和18)年10月1日から、電力統制で電気を使ったパーマネントはできなくなりましたが、長野県ではその前日、大勢の客が押し掛けた様子です。
 とはいえ、その後も炭で温めたこてを使ってパーマを提供する業者は続いた様子で、1945(昭和20)年7月3日の信濃毎日新聞には上田署が県下に先駆けて廃止に乗り出し、木炭持参者にパーマをかけていた業者8人に今後行わぬよう、行ったら営業停止にする、と言明したとのことです。署長は見苦しく防空活動も阻害する、という、やはり感情論しか言えませんでした。
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 敗戦間際まで、おそらく敗戦の日まで、パーマをやりつづけた業者も女性もいたことは、いかな世論でも権力でも押さえられないものがある、ということを示したように思えます。それがたとえ、髪形であったとしても。理不尽には理不尽と言い続けたい。


 

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