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太平洋戦争下の「翼賛選挙」でも、啓発用に学生のポスターコンクール

 今でも選挙が近づくと中高生などに啓発ポスターコンクールへの募集があったりします。世間の関心を集めるとともに、青少年にも選挙の大切さを伝える意義があると思います。太平洋戦争当時も、1942(昭和17)年4月30日投開票の衆議院議員選挙に向けて、同様なことが、別の意味合いを以て募集されます。
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 まず、この選挙は1937(昭和12)年7月7日に日中戦争が始まってから太平洋戦争敗戦の1945(昭和20)年8月15日までの間、戦時下に行った唯一の衆院選で、旧憲法下でも最後の選挙でした。当時、政党は全て解散しており、1941(昭和15)年に発足した上意下達の国民組織「大政翼賛会」の掛け声の中、国の政策を推進するためふさわしい人を国会議員に―と大政翼賛会関係団体の推薦候補を推すよう、暗に喧伝された「翼賛選挙」でした。

 国の政策を進めるにあたって適当な人物の当選を目指すため、政府が「大東亜戦争翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を決定。政府が、国会の方向性を決めたのです。大日本帝国憲法での三権分立はもとより弱いものでしたが、軍の、内閣の言うがままの国会を作る、独裁政治の完成を目指すものだったことは明らかです。この方針に沿って候補の推薦を仕切るのは、大政翼賛会の別動部隊である翼賛政治体制協議会(会長は阿部信行陸軍大将)であったり、翼賛壮年団であったりという、いわゆる支配層だでした。大政翼賛会の文字だけのポスターも上からの圧迫感があります。

文字だけでも抑圧感が通じるポスター

 とはいえ、圧倒的多数の推薦候補を当選させる選挙の正統性を訴えるには、投票率が重要な指標となります。
 そこで選挙の機運を醸成するため、長野県は1942(昭和17)年4月11日、国民学校6年以上、青年学校、それに中等学校に対し「大東亜築く力だこの一票」などの選挙標語を入れたポスターの作成を指示します。18日までの一週間の間に作成させ、適当な場所へ広く掲げるようにとしました。下写真の作品は、赤穂農商学校(現・赤穂高校-駒ケ根市)3年生の水彩画で、大変丁寧に描いてあります。裏面に掲示用シールの跡もあり、確かに街頭へ飾ってあったとみられます。優秀作品は5月に表彰もされました。

水彩画の力作

 こうした宣伝の中、候補を推薦に絞って対立候補を出させないようにし、もし出てきても徹底的に弾圧するという選挙戦が行われました。長野県では、良識派の植原悦二郎ら、推薦外の候補は次々と警察の干渉を受け、選挙責任者や運動員の逮捕が相次ぐなど激しく弾圧されたこともあって一人も当選せず、全国的にも珍しい「当選者全員が推薦候補」という結果になりました。そこまではいかずとも、全国的に推薦候補の圧倒的勝利は不動のものでした。こちら、選挙の開票結果を報じる1942年5月2日の読売新聞です。

新聞も翼賛選挙を全く批判せず後押し

 一方で、「憲政の神様」尾崎行雄や、衆議院本会議で「日中戦争の意義が不明なままいつまで戦争を続けるのか」という趣旨で政府や軍を糾弾した「反軍演説」で逆に議員を罷免されていた斎藤隆雄らは堂々と当選し、庶民の反骨心も一部でうかがえました。
 とはいえ、この選挙で推薦候補が圧倒的に当選し、政府や軍を後押しする組織としてしか機能しない議会がさらに強化されます。そして、ポスターで「勝ち抜くため」としたのに、戦争に勝つことはおろか、形成不利で止めることもできず、敗戦を迎えることになるのです。
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 今の国会は、戦時下の国会と比べてどうでしょうか。どこがかわったでしょうか。「もはや戦前である」という言葉は空文でしょうか。日本国憲法下での現状、国民の責任は一層重いものになっています。

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