見出し画像

日中戦争の開始に合わせ「国民精神総動員運動」始まるも、ごたくは難しくやることは普段から注意してることじゃね?

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争(日支事変、支那事変)。何度も交渉や停戦の模索もありましたが、当時の近衛文麿内閣は8月13日の第二次上海事変発生も受けて15日、「暴戻支那の膺懲」(暴れる中国を懲らしめる、という意味)をし、国民政府の反省を促すとして、現地部隊の衝突にとどめない、全面的な戦闘を表明します。
 これを受けて、軍需物資の統制は当然行うとして、政府は24日、閣議で「国民精神総動員運動」実施要項を決定します。何でも閣議で全国に影響が出ることを決めてしまうのは、大日本帝国時代から変わらない感じがしますが、それはさておき、10月1日に内閣情報部が発行した「国民精神総動員に際し国民諸君に臨む」と題した4ページのパンフを見てみます。

冒頭は帝国議会開院式での近衛首相のあいさつ

 あいさつを要約すると「中国とはずっと仲良くと行動してきたのに、中国は日本を侮辱して貿易にも支障が生じて事変が起きた」と、責任を中国に被せています。第一次世界大戦の21か条要求、満州事変から満州国建国、華北への傀儡政府樹立と密輸出といった日本の画策が「隣交の誼を忘れ信義を失」し、排日排貨を招いた背景なのですが。
 そして時局重大、堅忍不抜の志で先行きの見えない戦争に「敢然と邁進」するため「尽忠報国」の精神を奮い起こし、これを日常の業務生活に実践するのが「国民精神総動員の眼目」としています。そして「忠誠公に奉じ」「国力の伸長を図り」「皇運を扶翼」していくのが戦時下の国民の覚悟とします。教育勅語らしき言葉がこういうところに顔を出します。
 では、具体的に何をするか。1,必勝の信念を養う 2,欠乏に合える心身の鍛錬 3,和協奉公の精神 4,銃後の後援 5,勤労報国 6,資源愛護ーとなっています。
 長野県ではこれを受けて生活実践要項を制定。宮城遥拝、早起き励行。時間尊重、貯金奨励、衣食住改善、婚儀や葬儀の改善等を挙げています。一言でいえば「贅沢するな」ということです。

長野県がまとめた国民精神総動員の実践内容
さっそく銃後後援強化を指令しています。

 国レベルでは、国民精神総動員運動を盛り上げていくため、10月11日、国民精神総動員中央連盟を発足させます。全国74団体で組織されました。

各種団体も参加

 とにかく常にPRが必要としてステッカーなどが作られたほか、民間会社も時局に乗らねばと工夫します。

長野県内で作られたステッカー
薬品会社のラジオ体操記録表にも標語が登場

 対応を知事から指示された市町村では、組織作りから始め、徐々に取り組みを形にしていきます。上田市では1938(昭和13)年4月1日から7日までを「国民精神総動員強調週間」と設定しました。

上田市の強調週間の要項

 各日を「日本精神発揚の日」「経済生活改善の日」などとして、国旗掲揚や貯金箱の備え付け、禁煙、早起き、古物の整理など、それぞれの趣旨に合わせて「必行事項」としています。

長野市の生活様式決定事項

 長野市では国民精神総動員長野市実行委員会を作り、常任委員会で「非常時国民生活様式に関する決定事項」を1938(昭和13)年9月にまとめました。
 生活様式としては「集団行動の規律化」(会議などの時間を守れ、列車の乗降を順を守れ、との内容)、「儀礼の改善」(結婚はしたくを簡素に、披露はお茶会の程度に、葬儀も酒食は避けるなど)、「酒タバコの節制」(執務中はなるべく喫煙せざること)、「体位の向上」「物資の節約」「空地の利用」としています。
 生活用品に関する事項では、愛護と流用を主とし、買わねばならないときは代用品にと。
 廃物不用品に関する事項として、屑物や不用品の活用をあげていますが、分別して売却すること、使わない物のリサイクルという、至って普通の事です。国民儀礼章の紹介もしていました。

寝る時に電気を消そうというのも国民精神総動員

 それにしても、わざわざというのが上写真の、「寝る時不要な電灯は是非けしましょう」「ネオンや装飾灯はやめることになりました」の長野県などからのお達し。家庭のわずかな電気の点灯も統制するほか、ネオンなどは時局柄良くないと取り替えるのですが、業者いわく、「ネオンのほうが電球より消費電力が少ないのに」と不満も出ていて、質素な生活と電気節約が矛盾することを平気で指示していました。

 そして1938(昭和13)年12月、長野駅も「国民精神総動員」と大きく付けたチラシで歳末輸送のお願いをしています。

長野駅の「国民精神総動員」チラシ

その内容が「大都市あては25日までに」「荷造りは厳重に」「荷札の書体は明瞭に」「受け取りは24時間以内にしないと保管料が必要」ーなどなど。わざわざ注意するというのは、当時の人たちの荷造りや宛先の書き方が雑だったということでしょうか。この際だから「国民精神」を前面にかかげて改善を図ろうという狙いだったのかもしれません。
           ◇
 こんな調子で、当時の緩い生活感が逆に見えてきます。一方、国民精神という形のない物を重視して論理的な思考を後回しにするので、ネオンのように矛盾が出たりしています。まあ、論理的思考をすれば、当時の中国の主権を守る九か国条約と戦闘による領土拡張を認めない不戦条約に違反して反発されたことがそもそもの問題ですから、戦争自体、論理を否定していたのです。だからこそ、銃後の国民にも、とにかく「精神」でとしたのでしょうが、それが後に大きな悲劇につながっていくのです。


ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。