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戦地と家族、つないだはがきー前線の士気を高めるためさまざまな団体が工夫

 戦時中、家族と前線の兵士をつなぐ、大切でほとんど唯一の手段が手紙でした。当時は検閲があり、何かまずいことがあると下の写真のように塗りつぶされてしまいます。そんな型にはまった文しか書けない中で、それぞれが個性を出し、かいくぐった様子がうかがえます。

一部を塗りつぶされたはがき

 前線からのはがきは、家族へびっしりと近況を書いたものが多いですが、小さい子どものため、読みやすくしたり、イラストを駆使したものもあります。こちらは、長野県島立村(現・松本市)から仏領インドシナに派遣された方のもの。仏領インドシナはフランスの統治のままで、フランス軍も日本軍と共存していました。

小さい娘さんにあてたはがき

 こちらは長野県境村(現・富士見町)から中国戦線に出征中の衛生兵が息子さんと娘さんにあてたはがきです。同じ人の複数のはがきを入手して分析したところ、無事復員できたようです。

絵心があったのでしょうか。すごい上手。

 そして前線の士気を上げる狙いもあり、簡易に出しやすい既製品や絵葉書も目立ちます。こちらは、大政翼賛会協賛で、軍人援護会長野県支部が国民学校に配布したミニレターのようなものです。

 通常のはがきよりたくさん書けるので、大きな文字でしか書けない子ども向けだったのでしょう。最後に「さようなら」と記述してある点にご注意ください。これは、兵隊に未練を残させないようにとの狙いで、このように書くのが普通とされていたのです。

出征兵士の家への勤労奉仕があったようです。

 大日本勤労奉仕会は、特定の兵士にあてるのではない、慰問袋などに入れるようなものを作っていました。愛国行進曲付きです。

 長野県農業会も、農村風景を描いた特製の絵葉書を作成していました。県内の各地のものがあり、それぞれ使い分けるようにできたようです。兵士を鼓舞する言葉も入れているのは、望郷の念だけに駆られないようにとの考えでしょうか。

 最後に、こちら「出征消防組員戦勝祈願祭記念」の絵葉書です。大日本消防協会長野支部伊南分会(現在の長野県上伊那郡南部)が日中戦争開戦間もない1937(昭和12)年12月に作ったものです。

出征や入営を祝うのぼりも立っている様子。

 前線の士気を高めるための、各団体の葉書類は多数に上ります。とはいえ、それが家庭とのやり取りの役に立ち、兵士の「生きて故郷に帰る」という思いにつながっていたのなら、戦地の住民に家族の姿を重ねて大切にすることにつながっていたのなら、狙いはどうであれ、一枚の葉書が大事な役割を果たしてくれたと言えるのではないでしょうか。

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